ケアの倫理は現代D&Iに何をもたらすか:関係性と応答性の哲学
はじめに:D&Iをめぐる議論と哲学の新たな視角
現代社会における多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、すなわちD&Iを巡る議論は、制度設計、権利擁護、機会均等といった観点から活発に行われています。これは、誰もが生まれ持った特性や背景にかかわらず、公正に扱われ、社会に参画できる環境を構築するために不可欠な取り組みです。しかし、社会の複雑化や個々の経験の多様化が進むにつれて、こうした普遍的な原則や規則だけでは捉えきれない課題も明らかになってきています。
哲学は、こうした現代社会の根深い問題に対して、多様な角度から思考の枠組みや概念的なツールを提供してきました。本記事では、特に「ケアの倫理(Ethics of Care)」という哲学的な視点に注目し、それが現代のD&I課題を理解し、実践を深める上でどのような新たな示唆を与えてくれるのかを考察します。ケアの倫理が強調する「関係性」や「応答性」といった概念が、画一的なアプローチでは見落とされがちな多様性の側面や、真に包摂的な社会を築く上での重要な要素を照らし出す可能性を探ります。
ケアの倫理とは何か:正義論との対比から
ケアの倫理は、20世紀後半に心理学者キャロル・ギリガン(Carol Gilligan)が提唱し、ネル・ノディングス(Nel Noddings)らによって倫理学的な体系として発展させられた考え方です。伝統的な倫理学、特にカント的な義務論やロールズ的な正義論が、普遍的な原理や権利、公正な規則の確立に焦点を当てる傾向があるのに対し、ケアの倫理は人間関係の中で生じる具体的な責任や配慮、応答性を重視します。
伝統的な正義論が、抽象的な個人間の権利と義務、分配の公正さを問う傾向があるのに対し、ケアの倫理は、具体的な他者との関係性の中で生まれる相互の依存や脆弱性を認識し、それに対する応答的な責任を倫理の基盤と捉えます。これは、個々の状況や文脈に深く根差した倫理であり、普遍的なルールに従うこと以上に、具体的な他者のニーズに配慮し、関係性の中で適切な対応をすることに価値を置きます。
例えば、ノディングスは、倫理的な配慮は特定の関係性、例えば親子の関係や友人関係といった「ケアする人(carer)」と「ケアされる人(cared-for)」の具体的なつながりから生まれると論じます。倫理的な応答は、抽象的な義務感からではなく、関係性の中での「自然なケア」という感情や傾向から発し、それが「倫理的なケア」へと発展すると考えられます。
ジョーン・トロント(Joan Tronto)は、ケアを単なる個人的な感情や行為にとどまらず、社会的な実践として捉え直し、「ケアの政治」を論じました。トロントによれば、ケアは「世界の、私たちの、そして私たち自身の一切を、可能な限り良好な生活を維持し、持続し、修復するために行う活動すべて」を指し、注意(attentiveness)、責任(responsibility)、有能さ(competence)、応答性(responsiveness)といった段階を含みます。この社会的なケアの概念は、個人の領域を超えて、社会全体の包摂性を考える上で示唆を与えます。
ケアの倫理が現代D&Iにもたらす視点
ケアの倫理の視点を現代のD&I課題に適用すると、どのような洞察が得られるでしょうか。
第一に、「関係性」の重視は、D&Iを単なる属性の多様性のリストアップや数値目標の達成として捉えるのではなく、多様な人々がいかに相互に関わり合い、支え合っているかというダイナミックなプロセスとして理解することを促します。社会は独立した個人の集まりであると同時に、相互に依存し合う関係性のネットワークでもあります。高齢者、障害者、子ども、あるいは病を抱える人々など、多くの人々は他者からのケアや支援を必要としており、それは決して特別なことではなく、人間存在の根源的な側面です。ケアの倫理は、こうした相互依存性や脆弱性を隠蔽するのではなく、むしろそれを認め、配慮の対象とすることの重要性を強調します。
第二に、「応答性」の強調は、画一的なルールや制度だけでは多様なニーズに応えきれない現実に対応するための鍵となります。一人ひとりの経験や状況は異なります。例えば、同じ「障害」であっても、個人が必要とするサポートや環境は多様であり、普遍的なバリアフリー基準だけでは十分ではありません。ケアの倫理に基づく応答性は、マニュアル通りの対応ではなく、目の前の特定の個人との関係性の中で、その人の固有の状況や声に耳を傾け、柔軟かつ適切な形で応えようとする姿勢を重視します。これは、支援を提供する側とされる側という二項対立を超え、共に状況を理解し、解決策を模索する協働的なアプローチを促す可能性があります。
D&I実践におけるケアの倫理の応用と課題
ケアの倫理の視点は、具体的なD&I実践においても応用可能です。
- 職場における包摂: 従業員の多様なライフイベント(育児、介護、病気など)への配慮や柔軟な働き方の提供は、普遍的な制度だけでなく、個々の状況に応じた上司や同僚からの「応答的なケア」によって実質的な包摂性が高まります。形式的な制度だけでなく、人間関係の中での相互理解と配慮が重要になります。
- 教育現場: 学生一人ひとりの学習スタイル、家庭環境、精神的な状態などは多様です。普遍的な教育カリキュラムに加え、個々の学生のニーズに応じたきめ細やかな指導やサポートは、ケアの倫理の応答性の考え方と深く関連します。
- 地域コミュニティ: 高齢者や障害者が地域で孤立しないためには、制度的なサービスに加え、地域住民同士の相互の「見守り」や「支え合い」といったケアの関係性が不可欠です。これは、抽象的な「住民」ではなく、顔の見える具体的な他者への配慮として現れます。
しかし、ケアの倫理をD&Iに適用する際には課題も存在します。ケアの倫理は、関係性や感情に依拠する側面があるため、公平性や普遍性を確保することが難しくなるという批判があります。また、ケア労働の多くがジェンダー化され、過小評価されてきた歴史を持つことから、ケアの倫理の強調が、特定の属性の人々にケアの負担を押し付ける結果にならないかという懸念も存在します。さらに、ケアの関係性が権力勾配を含む場合、応答性が支配や依存を強化する可能性も否定できません。
したがって、ケアの倫理は、D&Iにおける唯一の解ではありません。むしろ、正義論が提供する権利や公平性といった普遍的な枠組みと補完し合う関係にあると考えるべきでしょう。普遍的な権利を保障しつつ、具体的な関係性の中での応答性と配慮を組み合わせることで、より豊かで真に包摂的な社会の実現に近づくことができると考えられます。
結論:関係性と応答性から捉え直すD&I
本記事では、ケアの倫理が現代のD&I課題に対して、関係性や応答性といった哲学的な視点からどのような貢献をするかを考察しました。普遍的な正義や権利の議論がD&Iの制度的基盤を築く上で不可欠である一方、ケアの倫理は、多様な他者との具体的な相互作用の中で生まれる配慮や責任の重要性を浮き彫りにします。
D&Iを考える上で、私たちは往々にして属性やカテゴリーに目を向けがちですが、ケアの倫理は、私たち一人ひとりが互いに依存し合い、関係性の中で生きている存在であることを思い出させてくれます。そして、真の包摂とは、画一的なシステムに人々を当てはめることではなく、一人ひとりの声に耳を傾け、その固有のニーズや状況に対して柔軟に応答していくプロセスの中にこそ見出されるのかもしれません。
ケアの倫理を学ぶことは、D&Iを巡る議論に、制度論的な視点に加え、人間的な繋がりや相互扶助といった側面を深く組み込むための手がかりとなります。哲学的な探求は、現代社会の複雑な課題に対して、単なる解決策を提示するのではなく、問題をより深く理解し、新たな角度から問い直すための視座を与えてくれるのです。多様性を受け入れ、真に包摂的な社会を築くためには、普遍的な正義の原則と、具体的な関係性における応答的なケアという、双方の視点が不可欠であると言えるでしょう。