「市民」の境界線を問い直す:哲学が探る包摂的シティズンシップ
はじめに:現代社会における「市民」という問い
現代社会では、「多様性」と「包摂(インクルージョン)」が重要な課題として認識されています。その議論において、しばしば見過ごされがちな問いの一つに、「誰がそもそも社会の一員、すなわち『市民』とみなされるのか」という問題があります。形式的な国籍や法的な市民権を持つことだけが「市民」であることの意味を尽くすのでしょうか。あるいは、社会への参加、貢献、あるいは単にそこに「存在する」ことが市民性を構成するのでしょうか。
この問いは、まさに哲学的な考察が深く関わるところです。歴史を振り返れば、「市民」という概念は常に一定ではなく、特定の時代や社会において、誰がその範疇に含まれ、誰が排除されるのかが決定されてきました。現代の多様な社会において、D&Iを真に実現するためには、この「市民性(シティズンシップ)」という概念そのものを哲学的に問い直し、より包摂的なあり方を探ることが不可欠です。本稿では、哲学史における市民概念の変遷をたどりながら、現代D&Iにおける包摂的シティズンシップの構築という課題について考察を進めます。
哲学史における「市民」概念の変遷と排除の構造
「市民」という概念の起源は、しばしば古代ギリシャのポリスに求められます。アリストテレスは『政治学』において、市民を「裁判の職務と官職の職務に参与する者」と定義しました。ポリスの市民は、自ら統治に参加し、公共の事柄について議論する存在であり、その営みを通じて幸福を目指すとされました。しかし、この市民の資格は、成人男性で、自由民であり、かつ一定の財産を持つ者に限定されていました。女性、奴隷、外国人(メトイコイ)は、ポリスに居住し、経済活動を担っていたとしても、この市民の枠組みから明確に排除されていたのです。ここには、「市民」という概念が、共同体への積極的な参加と権利の裏側で、特定の属性を持つ人々を公的な領域から排除する構造を内包していたことが示されています。
近代に入り、市民概念は国民国家の形成とともに大きく変容します。社会契約論の哲学者たちは、国家を個人間の契約に基づくとし、その構成員を「市民」と見なしました。例えば、ルソーは『社会契約論』で、市民を法の支配のもとで自由かつ平等な主体として描きました。ここでの市民は、特定の身分や階級ではなく、理論上は普遍的な人間として捉えられます。しかし、実際の歴史においては、この近代的な市民概念もまた、財産、性別、人種、階級といった基準によって制限されてきました。普通選挙権が成人男性全体に認められるまでに長い時間を要したことや、植民地支配下の人々が「市民」とは見なされなかったことなどは、近代的な市民概念がいかに特定の排除を含み込んでいたかを示しています。普遍的な理念としての市民と、現実社会における市民の間のこの乖離は、現代まで続くD&Iの課題の根源の一つと言えるでしょう。
現代哲学からの問いかけ:シティズンシップの境界はいかに構築されるか
現代哲学は、この「市民」という概念がいかにして構築され、その境界が維持されるのかについて、多角的な問いを投げかけています。
ミシェル・フーコーの権力論は、この問題を理解する上で示唆に富みます。フーコーによれば、権力は国家や法のような制度だけでなく、社会に遍在する規律や規範のネットワークとしても働きます。この規律権力は、人々の身体や行動を管理し、正常なものと逸脱したものを区別することで、特定の「主体」を形作ります。「市民」という主体もまた、こうした規律の網の目の中で「正常」かつ「適切」と見なされる振る舞いや属性を持つ者として構成される側面があると考えられます。移民、性的マイノリティ、障害者など、社会の多数派が設定する規範から「逸脱」する人々は、この規律によって「不適切な市民」「不完全な市民」あるいは「非市民」として位置づけられ、公的な空間や議論から遠ざけられる可能性があります。
また、承認論の観点からもシティズンシップは考察できます。アクセル・ホネットは、承認を自己関係(自己肯定感)の形成に不可欠なものとし、権利、連帯、愛といった様々な承認の形式を論じました。「市民」として認められることは、法的な権利を持つこと(権利による承認)だけでなく、社会的な連帯の対象となること(連帯による承認)や、文化的な価値を認められること(愛、あるいは連帯のより広範な形式)をも含みます。特定の集団が「市民」として見なされない、あるいは「二級市民」のように扱われるのは、単に法的な権利が剥奪されるだけでなく、社会的な連帯の輪から外され、文化的な価値を否定されるという、複数のレベルでの承認の欠如として捉えることができるでしょう。現代D&Iにおいて、形式的な権利付与だけでは不十分であり、マイノリティ集団が社会の一員として文化的に、あるいは象徴的に「承認される」ことの重要性が叫ばれるのは、この承認論の視点からも説明可能です。
さらに、ポストコロニアリズムの視点は、国民国家を単位とする近代的な市民概念そのものを批判的に捉え直します。国民国家の境界線は、歴史的に植民地支配や権力関係によって引かれたものであり、その内部で「国民」あるいは「市民」とされる基準もまた、支配的な文化や規範によって形作られています。グローバル化が進み、人々の移動が活発になる現代において、国民国家の枠組みだけでシティズンシップを語ることの限界が露呈しています。移民や難民が直面する市民権の問題は、まさにこの限界を象徴しています。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンが論じた「ホモ・サケル」のように、法や政治の外部に置かれ、「剥き出しの生」としてのみ存在する人々は、現代における「非市民」の究極的な姿として、既存のシティズンシップ概念への根本的な問いを投げかけていると言えるでしょう。
包摂的なシティズンシップの構築に向けて
これらの哲学的な考察は、現代D&Iの課題、特に排除や不平等の構造を理解する上で多くの示唆を与えてくれます。シティズンシップは、単に法律で定められた権利の束ではなく、歴史的に構築され、権力や規範によって維持され、社会的な承認によって支えられる、動的で境界が常に問い直されるべき概念であるということです。
包摂的なシティズンシップを構築するためには、以下の点が重要になると考えられます。
- 概念の拡張: シティズンシップを、法的な権利だけでなく、社会への「参加」や「貢献」、そして「存在そのもの」を肯定する概念へと拡張すること。これは、特定の「能力」や「属性」を持たないと市民ではない、という排除の論理を乗り越える視点につながります。
- 承認の重視: マイノリティ集団が、社会の中でその差異を認められ、価値ある存在として承認されることの重要性を理解すること。これは、単なる寛容ではなく、積極的な肯定と連帯に基づく包摂です。
- 境界線の問い直し: 国民国家の枠組みに囚われず、より広範なコミュニティ(都市、地域、あるいは地球規模)における「属する」ことの意味や、移動する人々の権利といった問題にも目を向けること。
現代社会におけるD&Iの実践は、こうした哲学的な問い、すなわち「誰が市民であり、いかにして市民となるのか」「市民の境界はどこにあるのか」という根源的な問いと切り離して考えることはできません。私たちが当たり前だと思っている「市民」という概念を哲学的に問い直すことは、多様な人々が互いを認め合い、共に生きることのできる社会を構築するための重要な一歩となるでしょう。
結論:問い続けることの重要性
本稿では、哲学的な視点からシティズンシップ概念の歴史と変容、そして現代D&Iにおけるその重要性について考察しました。古代ギリシャから近代、そして現代に至るまで、「市民」の定義は変化し、常に特定の排除を含んできました。現代哲学、特にフーコーの権力論やホネットの承認論、ポストコロニアリズムの視点は、シティズンシップがいかに構築され、その境界がいかに維持されるのかについて、深く鋭い洞察を与えてくれます。
包摂的な社会を目指す現代D&Iの実践は、単に制度や政策を変えるだけでなく、私たち一人ひとりが「市民」という概念そのものに内在する排除の可能性に気づき、その境界線を常に問い直し続ける哲学的な営みでもあります。あなたの周囲に存在する、様々な背景を持つ人々、あるいは社会の周縁に置かれているように見える人々は、「市民」としてどのように位置づけられているでしょうか。そして、あなた自身が「市民」として社会に参加し、関わることは、どのような意味を持っているでしょうか。
哲学を通じてシティズンシップを考えることは、現代社会の多様性と包摂という課題に対して、より深く、より批判的に向き合うための確かな視座を与えてくれるはずです。