哲学が問う「正常」と「逸脱」の構築:現代D&Iにおける規範と排除
現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、いわゆるD&Iの推進は重要な課題として認識されています。しかし、その取り組みを進める上で、私たちはしばしば「何が標準(normal)であるか」「何がそれから逸脱しているか」という暗黙の問いに直面します。この「正常」と「逸脱」という概念は、単なる統計的な平均を示すだけでなく、しばしば倫理的、社会的な価値判断を含み、特定の属性やあり方を持つ人々を排除するメカニズムとして機能することがあります。
本稿では、この「正常」と「逸脱」がどのように構築されるのかという問いを、哲学的な視点から掘り下げます。特に、ミシェル・フーコーの規律権力論や、クィア理論、障害学といった分野における哲学的な考察を参照しながら、現代D&Iが直面する根源的な問題にアプローチすることを試みます。
哲学における規範と「正常化」の力学
古来より、哲学は人間や社会の「あるべき姿」、すなわち規範について深く探求してきました。しかし、近代以降、社会の複雑化と共に、規範は単なる道徳的な指針に留まらず、社会構造や権力と不可分に結びついて考えられるようになります。
ミシェル・フーコーの哲学は、この点において非常に重要な視座を提供します。彼は、近代社会において権力が個々人を規律し、管理する仕組みを分析しました。特に、監獄、学校、病院といった制度を通じて機能する「規律権力」は、個々人を観察し、比較し、測定することで、「正常」からの隔たり、すなわち「逸脱」を発見し、これを是正しようと働きます。フーコーが「ノーマル化(normalization)」と呼んだこのプロセスは、単に統計的な基準に合わせるだけでなく、「あるべき」とされるモデルや基準への準拠を強制する道徳的・政治的な力を含んでいます。
このノーマル化の力学は、社会的な規範を強化し、そこから外れる多様なあり方を「異常」「問題」として位置づけます。例えば、身体的な特徴、認知能力、性別、セクシュアリティ、精神状態などが、医学的、心理学的、あるいは社会的な基準によって「正常」か「逸脱」かが判断され、それに基づいて管理や矯正の対象とされることがあります。フーコーは、このようにして知識と権力が結びつき、特定の主体性が形成され、あるいは排除されていく様を描き出しました。
「正常」性の批判:クィア理論と障害学からの問い
フーコーの分析は、その後の様々な社会批判、特に現代D&Iに関連の深い分野に大きな影響を与えました。クィア理論や障害学はその代表例です。
クィア理論は、異性愛を「正常」とし、それ以外のセクシュアリティやジェンダーを「逸脱」とする社会的な規範、すなわち「ヘテロノーマティヴィティ」を批判的に問い直します。ジュディス・バトラーなどの哲学者は、性別やセクシュアリティといった概念自体が、社会的な言説や実践によって構築されたものであり、普遍的な自然や「正常」な本質があるわけではないと論じました。クィア理論は、「正常」性の基準が排除を生み出す権力の働きであると暴露し、多様な性のあり方を「逸脱」としてではなく、それ自体として肯定することの重要性を主張します。
一方、障害学における社会モデルもまた、「正常」性の基準への批判として理解できます。社会モデルは、障害を個人の身体的・精神的な欠陥や「逸脱」として捉える個人モデルに対し、障害とは社会的な障壁や環境によって引き起こされるものであると主張します。例えば、車椅子利用者が建物に入れないのは、その個人の「歩行困難」が問題なのではなく、段差がある建物という社会環境が問題である、と考えるのです。ここでも、「歩行できる身体」や「定型的な認知能力」といった「正常」性の基準が社会環境の設計に組み込まれることで、それ以外の多様な身体や認知のあり方が「障害」とされ、排除されてしまう構造が見て取れます。
現代D&Iへの示唆:「正常」性の問い直し
これらの哲学的な視点は、現代D&Iの実践に対して重要な示唆を与えます。D&Iは単に、これまで「逸脱」として扱われてきたマイノリティを「正常」な社会に「受け入れる」という一方的なプロセスではありません。むしろ、何が「正常」であるかという基準そのものが、特定の集団にとって有利に、別の集団にとって不利になるように、社会的に構築されてきたものであることを理解する必要があります。
例えば、職場の慣行、教育システム、公共空間のデザイン、メディアにおける表現など、私たちの社会のあらゆる側面に「正常」性の基準は深く根差しています。それは、特定の働き方、学び方、コミュニケーションの仕方、あるいは特定の見た目や振る舞いを「標準」「当たり前」とし、それ以外を「イレギュラー」「配慮が必要なケース」と見なす形で現れます。
真のD&Iは、「逸脱」を「正常」に矯正しようとするのではなく、「正常」性の基準自体を相対化し、問い直すことから始まります。様々なあり方や属性を、単なる「逸脱」として管理・是正の対象とするのではなく、多様性そのものとして肯定的に捉える視点が必要となります。これは、社会構造や規範を批判的に分析し、無意識のうちに内面化している「正常」性の定義に気づくという、哲学的な思考プロセスを伴う営みです。
結論:構築された「正常」と向き合う
「正常」と「逸脱」という概念は、決して普遍的で客観的なものではなく、歴史的、文化的、社会的に構築されてきたものです。フーコーが明らかにしたノーマル化の力学や、クィア理論、障害学が展開する批判的な視点は、この構築プロセスとその排除的な側面を理解するための強力なツールとなります。
現代社会におけるD&Iの推進は、多様な人々を単に既存のシステムに組み込むだけでなく、そのシステム自体に埋め込まれた「正常」性の基準を問い直し、解体していく作業でもあります。私たちが日常的に接する様々な場面において、「これはなぜ『正常』とされているのだろうか?」「そこから『逸脱』と見なされるものは、どのように扱われているだろうか?」と問い続けることが、真に包摂的な社会を築くための第一歩となるでしょう。哲学的な思考は、この問いを深く掘り下げ、見慣れた日常に潜む排除の構造を見抜く力を私たちに与えてくれます。