異なる他者との「対話」はいかに可能か:哲学が探るD&I実践の基盤
はじめに:多様化社会における対話の課題
現代社会は、文化、価値観、経験など、様々な側面で多様化が進んでいます。企業や組織におけるダイバーシティ&インクルージョン(D&I)の推進は、このような多様性を尊重し、誰もが包摂される社会を目指す上で不可欠な取り組みとして広く認識されています。しかし、異なる背景を持つ人々が共に働き、生きる中で、意見の対立や誤解が生じることも少なくありません。このような状況で真の相互理解を深め、共に課題を解決していくためには、単なる情報交換や表面的な合意形成にとどまらない、実質的な「対話」が不可欠となります。
では、異なる他者との対話は、そもそも哲学的に見ていかに可能であり、どのような困難を伴うのでしょうか。また、哲学はD&I実践における対話の可能性について、どのような示唆を与えてくれるのでしょうか。この記事では、対話の根源的な困難さとその可能性について、哲学的な視点から考察を深めていきます。
対話の哲学的な困難:他者と差異の壁
異なる立場を持つ人々との対話が困難である理由の一つは、「他者」の存在そのものに関わります。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、『全体性と無限』などで、他者は決して私の意識やカテゴリーに還元できない、絶対的に異質な存在であると論じました。他者は私の理解の範疇を超え、「顔」として予期せぬ仕方で現れ、私に責任を問いかけます。この他者の絶対的な異質性は、異なる背景を持つ人との対話において、常に私の側の理解の限界、自身の地平からの逸脱を突きつけられることを意味します。相手を自分の知っている枠組みやステレオタイプに当てはめて理解しようとする試みは、しばしば他者の本質を見誤らせる原因となります。
また、ミシェル・フーコーは、社会における「差異」がいかに権力や言説によって構築され、固定化されるかを分析しました。私たちの社会は、様々なカテゴリー(性別、人種、障害、性的指向など)に基づき、標準からの「逸脱」として差異を位置づけ、それが排除や差別を生み出す構造を持っている場合があります。このような構築された差異は、人々の間に見えない壁を作り出し、対話の基盤となるはずの相互理解や共感を阻害する要因となり得ます。単に「違いを認め合う」という言葉だけでは、構造的に組み込まれた差異と、それに基づく権力関係や排除のメカニズムを乗り越えることは困難です。対話は、こうした権力関係や差異の構築性そのものにも向き合う必要が生じます。
さらに、異なる文化や価値観を持つ人々との対話は、そもそも前提となる規範や論理、さらには「正しい」ことや「良い」ことの定義が異なるという根本的な課題に直面します。リベラリズム哲学において、ジョン・ロールズが『正義論』で論じたように、現代社会は理性的でありながらも異なる包括的ドクトリン(広範な哲学的・宗教的・道徳的な信念体系)を持つ人々の共存を前提とします。このような多元的な社会において、特定の価値観に基づいた主張を普遍的なものとして押し付けることは、対話を成り立たせる上での障害となります。対話は、共通の基盤が容易に見出せない状況でも、いかにコミュニケーションを成立させるかという困難な問いを突きつけます。
対話の哲学的な可能性:コミュニケーションと承認、そして理解
このような困難にもかかわらず、哲学は対話の可能性を示唆する議論も提供しています。ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、コミュニケーション的行為論を展開し、言語を用いるコミュニケーションには、単に情報を伝達したり、相手を操作したりするだけでなく、相互理解を目指す側面(コミュニケーション的合理性)が内在すると論じました。ハーバーマスによれば、コミュニケーションには、発話が真実であること(客観世界)、規範的に正当であること(社会的世界)、誠実であること(主観的世界)という三つの正当性要求があり、対話参加者はこれらの要求に対して根拠を示すことで、理性的な合意形成を目指すことができます。
ハーバーマスが提示する「理想的発話状況」(すべての参加者が自由に発言でき、論拠の力だけが支配する状況)は、現実には到達困難な理想ですが、 D&Iにおける対話の規範的なモデルとなり得ます。真に対等で包摂的な対話の場を設計する上で、参加者が自身の立場や意見を安心して表明でき、その意見が理性的な根拠に基づいて検討されるような環境をいかに整えるか、という問いは重要です。D&I推進における様々なステークホルダー間の対話や、多様な従業員の声を聞くための仕組みづくりにおいて、ハーバーマスのコミュニケーション論は、対話の質を高めるための示唆を与えます。
また、アクセル・ホネットの承認論も、対話とD&Iの関係を考える上で重要です。ホネットは、自己実現には「承認」が不可欠であり、それは「愛」(親密な関係)、「法」(権利としての承認)、「連帯」(価値連帯)の三つのレベルで得られると論じました。特に「連帯」は、人々が互いの異なる能力や貢献を社会的に価値あるものとして認め合う関係であり、これは継続的な相互作用や対話を通じて構築されます。D&I実践において、多様な属性を持つ人々が互いの存在や貢献を価値あるものとして認め合う関係性を築くことは、包摂的な文化を醸成する上で核となります。このような関係性は、一方的な「受け入れ」ではなく、双方向の対話と相互作用の中でこそ育まれます。
さらに、ハンス=ゲオルク・ガダマーの哲学的な解釈学は、異なる理解の「地平」(Horizon)を持つ者同士が、対話を通じて自身の地平を問い直し、相手の地平との間で「地平融合」(Horizontverschmelzung)を起こすことで、新たな共通理解に至る可能性を示唆しています。異文化理解や、世代間、あるいは異なる専門分野の人々との対話において、私たちは自身の前提や見方を一時保留し、相手の見方に寄り添おうと努めることで、自身の理解の枠組みを拡張することができます。D&Iにおいて多様な背景を持つ人々と関わることは、まさに自身の「地平」を広げ、新たな知見や共感を生み出す機会となり得ます。
D&I実践への哲学的な示唆
哲学的な考察は、D&Iにおける「対話」が、単なる情報交換のスキルや会議の技術に留まらず、他者の異質性への向き合い方、構築された差異への意識、そして理性的なコミュニケーションと相互承認の基盤に関わる深い問いを含んでいることを示しています。
D&Iを推進する上で、私たちは対話の場を設定するだけでなく、その場がハーバーマス的な「理想的発話状況」に少しでも近づくよう、参加者の安全や平等を確保するための配慮を怠ってはなりません。また、対話を通じて異なる他者のレヴィナス的な「顔」に出会い、その異質性から目を背けずに、責任をもって向き合う姿勢が求められます。ガダマーの解釈学が示すように、対話は一方的に教えたり、説得したりするプロセスではなく、自身の理解の限界を知り、相手から学ぶ相互的なプロセスとして捉えるべきです。
対話の目的は、必ずしも完全な意見の一致を見ることだけではありません。ホネットの承認論が示唆するように、対話を通じて互いの存在や貢献を認め合い、価値連帯の関係性を築くこと自体が、包摂的なコミュニティを形成する重要な一歩となります。哲学的な視点を持つことで、私たちはD&Iにおける対話の表層的な側面だけでなく、その根源的な困難さと可能性を理解し、より深く、実りあるコミュニケーションを目指すための思考の基盤を培うことができるでしょう。
結論:対話を問い続けること
現代社会における多様性・包摂の実践は、常に困難を伴う対話の試みです。哲学は、この対話の道のりがなぜ困難であり、いかにしてその可能性を拓くことができるのかについて、歴史上の様々な思想家たちの議論を通じて示唆を与えてくれます。
レヴィナスの他者論は、対話における謙虚さの必要性を、フーコーの言説論は、対話の前提となる構造的な不平等への意識を促します。そして、ハーバーマスのコミュニケーション論やホネットの承認論、ガダマーの解釈学は、対話を通じて相互理解や承認、新たな共通理解がどのように可能になるのかについての道筋を示しています。
D&Iを哲学的に深く理解し、実践していくためには、これらの思想を参考に、私たちが日々直面する対話の機会を、自己と他者、そして社会との関係性を問い直す場として捉え続けることが重要です。対話は、多様性を力に変え、より包摂的な社会を築くための、絶え間ない哲学的な探求と言えるでしょう。