D&Iと「幸福」の哲学的探求:多様なウェルビーイングの実現に向けて
はじめに:D&Iの目的としてのウェルビーイング
現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、すなわちD&Iの推進が重要な課題とされています。この取り組みは、単に法的な権利の保障や形式的な平等を目指すだけでなく、より深い次元で、社会を構成する多様な人々一人ひとりが、自身の個性や背景に関わらず、尊厳を持って「善く生きる」ことを可能にすることを目指していると言えるでしょう。この「善く生きる」という問いは、古来より哲学が探求してきた「幸福」や「ウェルビーイング」の概念と深く結びついています。
本記事では、現代のD&Iが目指すものと哲学的な幸福論・ウェルビーイング論を関連付けながら、多様な人々が真に包摂された社会でウェルビーイングを実現するためにどのような哲学的課題があるのかを考察します。
哲学史における「幸福」と「善き生」の探求
「どうすれば人は幸福になれるのか」「いかに生きることが善い生き方なのか」という問いは、哲学の最も根源的な問いの一つです。様々な哲学者によって、この問いに対する答えが探求されてきました。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』において、人間の究極的な目的は「エウダイモニア(eudaimonia)」であると論じました。これは一般に「幸福」と訳されますが、「よく生きていること」「繁栄していること」といった、単なる快楽や主観的な満足にとどまらない、人間の理性的活動が卓越性(徳)を発揮している状態を指します。アリストテレスにとって、このエウダイモニアは共同体(ポリス)の中で実現されるものであり、個人の善と共同体の善は切り離せない関係にありました。
近代に入ると、幸福の捉え方に変化が現れます。功利主義は、「最大多数の最大幸福」を原理とし、社会全体の幸福の総和を最大化することを目指しました。ここでは幸福は個人の快楽や苦痛の計算として捉えられ、集計可能性が重視されます。一方で、イマヌエル・カントのような義務論者は、道徳の原理を幸福といった結果ではなく、理性が自らに課す義務(定言命法)に求めました。カントは幸福追求を個人の自由な営みと認めつつも、他者の幸福を目的とすることを道徳的義務と考えました。
これらの哲学的な議論は、「幸福とは何か」「それは個人の問題か社会の問題か」「社会はいかにして人々の幸福に貢献できるか」といった、現代のD&Iが直面する問いの原型を含んでいます。しかし、哲学史における多くの幸福論は、ある程度の共通の価値観や人間の本質を前提としていた側面もあり、現代社会の極めて多様な価値観や生き方を十全に捉えられているとは限りません。
現代哲学におけるウェルビーイング概念とD&I
現代社会における多様な人々の「善き生」を考える上で、哲学的なウェルビーイング概念、特に経済学や開発論とも関連して議論されるアプローチが示唆的です。
経済学者であり哲学者でもあるアマルティア・センは、幸福や生活水準を測る際に、単なる所得や資源の量ではなく、人々が実際に「何ができ、何であるか」に着目するケイパビリティ・アプローチを提唱しました。センによれば、ウェルビーイングは、人々が自身の価値を置く「機能」(例えば、健康であること、教育を受けること、社会に参加することなど)を達成できる現実的な機会、すなわち潜在能力(ケイパビリティ)の豊かさによって評価されるべきです。
このケイパビリティ・アプローチは、D&Iを考える上で極めて重要です。社会的に不利な立場にある人々は、たとえ同じ量の資源を与えられても、それを自身の望む機能やウェルビーイングに変える能力(例えば、障害によるアクセスの問題、差別の存在、教育機会の格差など)が異なる場合があります。D&Iは、単なる資源の平等な分配にとどまらず、多様な人々がそれぞれの背景に関わらず、自身の潜在能力を最大限に発揮し、自身が価値を置く生き方(多様な機能の組み合わせ)を選択し実現できるような社会構造や環境を整備することを目指すべきである、とケイパビリティ・アプローチは示唆します。
また、社会哲学における承認論も、多様な人々のウェルビーイングにとって欠かせない視点を提供します。アクセル・ホネットは、ヘーゲルの哲学などを参照しながら、個人が自己との肯定的な関係(自己信頼、自己尊敬、自己評価)を築き、ウェルビーイングを実現するためには、他者や社会からの承認が不可欠であると論じました。法的な権利の承認、道徳的な尊敬、そして個別の特性や貢献に対する社会的な評価といった承認の欠如は、尊厳の侵害や自己実現の妨げとなり、ウェルビーイングを著しく損ないます。D&Iの実践は、まさに多様なアイデンティティや経験が社会の中で承認されるプロセスであり、これは多様な人々のウェルビーイングにとって基盤となるものです。
さらに、ジョン・ロールズの正義論も、直接的に幸福そのものを論じるわけではありませんが、公正な社会構造こそが、多様な個人が自身の「善の構想」(それぞれの幸福観)を追求できる基盤となると考えます。ロールズのリベラリズムは、特定の幸福観を社会が押し付けるのではなく、多様な幸福観が共存しうる「公正な枠組み」を提供することに主眼を置いています。これは、多様な価値観を持つ人々が共に生きる現代社会において、D&Iを「多様なウェルビーイングの追求を可能にするための公正な条件整備」として捉える視点を提供してくれます。
多様な「善き生」の共存とD&Iの課題
哲学的なウェルビーイング論をD&Iに適用する際に直面する重要な課題は、多様な「善き生」の構想をいかにして一つの社会の中で共存させるかという点です。ある集団にとっての「善き生」の追求が、別の集団のウェルビーイングを阻害しないためにはどうすれば良いのでしょうか。
ここには、相対主義と普遍主義の間の緊張が見られます。文化相対主義の視点からは、幸福や善き生はそれぞれの文化や価値体系の中で固有の意味を持つとされます。しかし、極端な相対主義は、人権侵害をも許容する可能性をはらみます。一方で、特定の普遍的な価値観を押し付けることは、多様性を否定し、包摂を阻害する可能性があります。
哲学的な考察は、この困難なバランスをとるための示唆を与えます。例えば、ケイパビリティ・アプローチは、具体的な「機能」の達成可能性という、ある程度普遍的な評価軸を提供しつつも、人々がどのような機能の組み合わせを価値あるものとするかについては個人の選択の自由を尊重します。ロールズの議論は、多様な「善の構想」が衝突しないよう、公的な議論や制度設計において共有可能な「公共理性」に基づく判断の重要性を示唆します。承認論は、互いの違いを認め、尊重することの倫理的な重要性を強調します。
D&Iの実践は、これらの哲学的洞察を踏まえ、多様な人々が自身の望む「善き生」を追求できる機会を可能な限り平等にしつつ、同時に異なる生き方や価値観が互いを認め合い、共に繁栄するための関係性や規範を築いていくプロセスであると言えるでしょう。これは、単なる形式的なルールの適用にとどまらず、他者の経験や価値観への想像力、対話を通じた相互理解、そして構造的な不平等に対する倫理的な感受性を必要とします。
結論:ウェルビーイングへの哲学的な問いかけ
現代のD&Iは、単に社会の構成員の多様性を認識し、包含するだけでなく、その多様な一人ひとりが、自身の可能性を十分に発揮し、自らが価値を置く形で「善く生きる」、すなわちウェルビーイングを実現できる社会を目指しています。この目的をより深く理解し、その達成に向けた課題を明確にする上で、哲学的な幸福論やウェルビーイング論は強力な視点を提供してくれます。
アリストテレスから現代のセン、ロールズ、承認論に至るまで、哲学は「いかに生きることが善いか」という問いに様々な角度から取り組んできました。これらの議論は、単なる快楽や主観的な満足に留まらない、人間の多様な営みや社会的な関係性の中にウェルビーイングの根拠を見出すこと、そしてそれを実現するための公正な社会構造や相互承認の重要性を示唆しています。
D&Iの実践は、これらの哲学的洞察を現実社会に応用する試みとも言えるでしょう。多様な価値観が共存する中で、いかにして普遍的なウェルビーイングの基盤を築きつつ、それぞれの固有の「善き生」の追求を可能にするのか。この問いは、D&Iを考える上で避けて通れない、哲学的な探求を必要とする課題であり続けるでしょう。多様なウェルビーイングが真に実現される社会に向けて、哲学からの学びは私たちの思考を深め、実践を豊かにする力となるはずです。