哲学で考えるD&I実践

現代D&Iにおける認識論的正義:知識・証言の包摂を哲学する

Tags: 認識論的正義, D&I, 哲学, 不正義, 知識, 包摂, 多様性, 証言的正義, 解釈学的正義

現代社会の多様性と「認識論的正義」の問い

現代社会において、私たちは多様な人々との共生を目指し、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)の推進に取り組んでいます。この取り組みは、単に物理的・社会的な障壁を取り除くことにとどまらず、様々な背景を持つ人々の声に耳を傾け、その経験や知識を正当に評価し、包摂していくという課題を含んでいます。しかし、現実に、特定の集団や個人の経験、あるいは彼らが提供する知識や証言が、不当に軽視されたり、誤解されたり、あるいはそもそも共有されるための「言葉」を持たなかったりすることがあります。これは、単なる不注意や無知の問題ではなく、社会に根ざした構造的な不正義の一側面として捉えることができます。

このような問題系を哲学的に考察する上で、近年注目されている概念に「認識論的正義(Epistemic Justice)」があります。認識論的正義は、哲学者ミランダ・フリッカーによって体系的に論じられ、知識の領域における不正義、すなわち、人が知る主体、あるいは知識の提供者として不当な扱いを受けることに関わる正義の概念です。本稿では、この認識論的正義の視点から、現代のD&I実践がいかに深い哲学的基盤を持つのかを考察し、多様な声が真に包摂される社会のあり方について考えていきたいと思います。

認識論的正義とは何か:フリッカーの議論を中心に

ミランダ・フリッカーは、認識論的正義を大きく二つの形態に分類しています。一つは「証言的正義(Testimonial Justice)」、もう一つは「解釈学的正義(Hermeneutical Justice)」です。

「証言的正義」は、ある人が何かを証言した際に、聞き手がその証言に与える信頼の度合いが、証言者のアイデンティティ(人種、ジェンダー、階級など)に起因する偏見によって、不当に割引かれてしまうことに関わります。例えば、特定のマイノリティ集団に属する人の経験談や告発が、「感情的になりすぎている」「信用できない」といった偏見によって真剣に受け止められない場合、これは証言的正義の侵害と言えます。ここでは、証言者から聞き手への知識の伝達が、社会的なステレオタイプや偏見によって阻害されているのです。D&Iの文脈では、職場でのハラスメントの訴え、サービス利用時の差別経験など、マイノリティ当事者による重要な証言が、まさにこのような不正義に直面しやすい状況があると考えられます。

もう一つの「解釈学的正義」は、社会的な経験や状況を理解・解釈するための共有可能な「解釈資源(Hermeneutical Resource)」が、特定の集団にとって不十分にしか存在しないことによって生じる不正義です。社会の支配的な集団の経験に基づいて形成された概念や言葉だけが存在し、マイノリティ集団の特有の経験(例えば、ある種のマイクロアグレッション、構造的な差別がもたらす心理的負荷など)を適切に表現し、理解するための概念や言葉が存在しない、あるいは社会的に共有されていない場合、彼らは自身の経験をうまく言語化できず、他者にも理解されにくいという困難に直面します。これは、自身の経験の意味を理解し、他者と共有するという、人間にとって根源的な能力が阻害されている状態です。D&I実践においては、多様な人々の経験を理解し、包摂的な社会規範を形成するために、既存の解釈資源を批判的に検討し、新たな概念や言葉を生み出していくプロセスが不可欠となります。

認識論的正義が現代D&Iに問いかけるもの

認識論的正義の視点を取り入れることで、現代のD&Iが直面する課題をより深く理解することができます。D&Iは単に人々の属性の多様性を認めるだけでなく、その多様な人々が持つ知識、経験、視点を組織や社会の中にどのように統合し、意思決定や文化形成に反映させていくかという問題です。

認識論的正義は、多様な人々の「声」が文字通り「聴かれる」ためには、物理的な空間へのアクセスや法的な平等だけでは不十分であり、その声が持つ知識としての価値が正当に評価され、社会全体がその声を聞き取り、理解するための「耳」と「言葉」を備えている必要があることを示唆します。

例えば、障害のある人の生活知、外国人移住者の社会経験、性的マイノリティの当事者ならではの視点などは、社会全体が直面する課題を解決したり、より豊かな文化を創造したりする上で、極めて重要な知識となり得ます。しかし、これらの知識が、既存の権威構造や認識の枠組みの中で不当に位置づけられたり、無視されたりする場合、それは認識論的な不正義であり、D&Iの理念に反する状態です。

認識論的な不正義を克服するために

認識論的正義の侵害に対処するためには、フリッカーが提唱する「証言的徳性(Testimonial Virtue)」や、より広範な「解釈学的探究(Hermeneutical Enquiry)」の実践が求められます。

証言的徳性とは、聞き手が持つべき倫理的な態度であり、証言者の属性に基づく偏見に左右されず、証言の内容そのものを公正に評価しようとする意志と能力です。これは、個人のリスニングスキルや共感能力だけでなく、組織や社会全体の文化として、多様な声に開かれた態度を育むことを含みます。

また、解釈学的探究は、既存の社会的な理解枠組みや言葉が、特定の集団の経験を捉えきれていない可能性を常に意識し、対話を通じて新たな解釈資源を共同で探求していく営みです。マイノリティ当事者の語りに積極的に耳を傾け、彼らが自身の経験を説明しようとする際に直面する困難を理解し、共にその経験に意味を与える言葉を探すプロセスは、解釈学的正義を回復するために不可欠です。

D&Iの取り組みにおいては、研修や啓発活動を通じて偏見(特に無意識のバイアス)に対処することに加え、多様なバックグラウンドを持つ人々が安心して自身の経験や知識を共有できる環境を整備し、彼らの声が意思決定プロセスに反映される仕組みを構築することが重要になります。これは、単に「多様性を尊重する」という理念に留まらず、社会全体の「知」のあり方そのものを、より包摂的で公正なものへと変革していく試みと言えるでしょう。

結論:哲学が照らすD&Iの新たな地平

認識論的正義という哲学的な概念は、現代社会の多様性・包摂を考える上で、非常に重要な視点を提供してくれます。それは、D&Iが単なる表面的な多様性の承認や、物理的なアクセスの提供にとどまらず、多様な人々が持つ知識、経験、語りが、社会の中で正当な価値を持ち、共有され、評価されるための深い認識論的・倫理的な課題であることを示しています。

哲学的な議論を通して、私たちは自身の中に潜む無意識の偏見や、社会に根差した解釈資源の偏りについて自覚的になることができます。そして、多様な声に真摯に耳を傾け、共に経験を理解する言葉を探求していく営みが、真に包摂的な社会を築く上で不可欠であることを再認識させられます。

認識論的正義の探求は、D&I実践のさらなる深掘りを促し、私たちが目指すべき多様で公正な社会の姿を、より鮮明に描き出す一助となるでしょう。多様な人々が自身の「知」を否定されることなく、安心して声を発し、その声が社会を形作る力となる未来を目指して、私たちは哲学的な問いを立て続け、実践を深めていく必要があります。