フーコー哲学は現代D&Iの権力構造をいかに照らすか:規律・監視・主体形成
はじめに:見えにくい権力と多様性の問題
現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、いわゆるD&Iは、企業、教育機関、行政など、あらゆる組織やコミュニティにとって重要な課題となっています。しかし、単に「多様性を尊重しましょう」「みんなを排除しないようにしましょう」と呼びかけるだけでは、問題の根深さや複雑性を見誤る可能性があります。なぜなら、社会には個人間の差別や制度的な不平等だけでなく、より深く、そして見えにくい形で人々のあり方や関係性を規定する「権力」が作用しているからです。
この見えにくい権力は、私たちの思考の枠組み、正常と異常の区別、何が望ましく、何がそうでないかといった規範を作り出し、人々の主体性(自己のあり方やアイデンティティ)の形成に深く関わっています。多様性を真に理解し、包摂的な社会を実現するためには、このような権力の働きを哲学的に考察することが不可欠です。
本稿では、20世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーの権力論を手がかりに、現代のD&I問題に潜む構造的な課題を読み解いていきます。フーコーの思想は、権力を単なる抑圧的なものとしてではなく、私たちの社会や私たち自身を形作る生産的な力として捉え直す視点を与えてくれます。
フーコーの権力論の基本:抑圧から生産へ
フーコーの権力論の最も特徴的な点は、権力を「持つ/持たれる」という関係や、「禁止する/従わせる」といった一方的な抑圧としてではなく、より網の目のように張り巡らされた、常に変動する「力関係」として捉えたことです。権力は、国家や特定の階級といった固定された実体にあるのではなく、社会のあらゆるレベル、あらゆる関係性の中に存在し、作用しているとフーコーは考えました。
また、フーコーにとって権力は単に人々を「禁止」したり「抑圧」したりするだけでなく、積極的に何かを「生産」する力でもあります。それは、特定の知(知識)を生み出し、特定の言説(Discourse)を構築し、そして何よりも特定の種類の「主体」を形成する力です。
フーコーは、近代社会に特有の権力の形態として、主に以下の二つを分析しました。
- 規律訓練型権力(Disciplinary Power): 個々の身体や精神を訓練し、規範化し、監視することで、従順で有用な主体を作り出す権力。学校、病院、工場、軍隊、そして監獄などがその典型的な装置です。パノプティコン(一望監視施設)のモデルは、見られているかもしれないという意識が自己規律を促す仕組みを示しています。この権力は、個々人を細かく分析し、比較し、正規化することで、「正常」と「異常」の境界を引き、逸脱を修正しようとします。
- 生権力(Biopower): 個々の身体の規律だけでなく、人間集団全体の生(人口、健康、出生率、死亡率など)を管理し、調整する権力。近代国家における公衆衛生、社会保障、統計学などの発展と密接に関わっています。生権力は、種としての人間を政治の計算可能な対象とすることで、特定の生のあり方を奨励し、別のあり方を管理・排除する論理を生み出しました。
これらの権力は、知(知識)の生産と不可分に結びついています。特定の知識や言説(医学、心理学、社会学など)は、権力関係の中で生まれ、また権力関係を維持・強化するために利用されます。フーコーは、この知と権力の結びつきを「知‐権力(savoir-pouvoir)」と呼びました。
フーコー哲学が現代D&Iに投げかける問い
フーコーの権力論は、現代のD&I問題を考える上で非常に示唆に富んでいます。D&Iが直面する課題の多くは、単なる「心の壁」や「制度の欠陥」だけでなく、社会に深く根ざした規律訓練型権力や生権力、そしてそれらが作り出す知‐権力によって構造化されているからです。
例えば、規律訓練型権力の視点から見ると、社会的に「普通」と見なされる性別表現、働き方、コミュニケーション様式、身体能力などが、いかに学校や職場、家庭といった場で人々に内面化され、自己規律として機能しているかが明らかになります。「普通」や「標準」からの逸脱は、「問題」や「改善すべき点」として捉えられ、様々な形で正規化(ノーマライゼーション)の圧力にさらされます。D&Iにおける「無意識の偏見」は、このような規律訓練によって形成された「正常な主体」のイメージに深く根ざしていると言えるでしょう。特定のアイデンティティ(例:LGBTQ+、障害者、非正規雇用者)を持つ人々は、「標準」から外れた存在として、見えない形で監視され、自己のあり方を修正するよう促される経験をすることがあります。
次に、生権力の視点からは、人口集団としての多様性が、いかに管理・計算の対象とされてきたかが浮かび上がります。例えば、特定の民族集団、階級、あるいは健康状態にある人々の生が、社会全体の生産性や安定性といった観点から評価され、管理される歴史を見て取ることができます。優生思想や、特定の集団に対する社会保障や医療へのアクセスにおける格差は、生権力の一つの帰結として理解することが可能です。現代においても、特定のマイノリティ集団が統計データの中で「問題のある集団」として描かれ、管理の対象とされるような言説は存在します。
また、知‐権力の視点からは、専門的な知識や言説が、どのように多様性を「カテゴリー化」し、「問題化」してきたかを分析できます。精神医学がセクシュアリティや性自認を疾患として扱ってきた歴史、教育学が特定の学習スタイルや行動を「障害」と定義し、個別支援の対象としてきたこと、あるいは社会学が特定の集団を「逸脱者」として分析してきたことなどは、知と権力が結びついて多様性を管理・正規化しようとした例と言えるでしょう。これらの知は、一見客観的に見えても、特定の権力関係の中で構築された「真実」であり、D&Iの議論においても、無意識のうちに既存のカテゴリーや規範を再生産してしまう可能性があります。
抵抗と主体の可能性:D&Iにおける実践的示唆
フーコーの権力論は、現代社会に張り巡らされた権力構造を明らかにするだけでなく、その中でいかに抵抗が可能かについても示唆を与えています。フーコーにとって、権力は固定された実体ではないため、権力関係が存在するところには必ず抵抗の可能性が生まれます。
D&Iの実践において、この視点は非常に重要です。多様な人々が、社会によって与えられたカテゴリーや規範に疑問を投げかけ、自身のアイデンティティを自己定義し、既存の知‐権力に対抗する新たな言説を創造していくプロセスは、まさにフーコーが探求した抵抗の一つの形と言えます。
例えば、当事者運動によるスティグマ(烙印)の克服、自身を取り巻く抑圧的な言説への批判、あるいはアートや文化活動を通じた多様な生の肯定と表現などは、規律訓練型権力や生権力、知‐権力に対する抵抗の実践です。D&Iは、単に多数派がマイノリティを「受け入れる」ことではなく、社会に潜む権力構造に気づき、それを問い直し、一人ひとりが自身の主体性をエンパワメントしていくプロセスでもあるのです。
結論:哲学的な視点からD&Iを深める
現代社会の多様性・包摂に関する課題は、個人の意識改革や制度の整備だけで解決できるほど単純ではありません。そこには、長年にわたり社会に蓄積されてきた、見えにくい権力構造が深く関わっています。
ミシェル・フーコーの哲学は、この権力構造を分析するための強力なツールを提供してくれます。規律訓練型権力、生権力、そして知‐権力といった概念を通して、私たちは社会規範がいかに私たちの主体を形成し、多様な生がいかに管理・評価され、そして特定の知識がいかに権力関係を強化してきたかを理解することができます。
このような哲学的な視点を持つことは、D&Iの実践において、問題をより深く構造的に捉え、表層的な議論に留まらない真の変革を目指す上で不可欠です。自身の思考や周囲の言説に潜む権力の働きに気づき、既存の規範やカテゴリーを批判的に問い直し、多様な主体による抵抗と新たな創造の可能性を探求すること。これこそが、哲学が現代のD&Iに貢献できる大きな役割と言えるでしょう。私たちがより包摂的な社会を目指す旅は、自身の内面や社会構造に潜む権力との対話から始まります。