言葉はいかに多様性を創造・抑圧するか:哲学が探るD&Iと言説の関係
現代D&Iにおける言葉と哲学
現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、すなわちD&Iは、企業、組織、そして個人の生活に至るまで、喫緊の課題として認識されています。この問題に取り組む上で、私たちはしばしば「どのような言葉を使えばよいか」「不適切な言葉とは何か」といった、言葉遣いの問題に直面します。しかし、D&Iにおける言葉の重要性は、単なるコミュニケーションスキルの問題に留まるものではありません。言葉は、私たちが現実を認識し、他者と関係を結び、自身のアイデンティティを形成する上で、哲学的に極めて根源的な役割を果たしているからです。
本稿では、多様性・包摂という現代的なテーマを、哲学、特に構造主義以降の言語観や言説論といった視点から考察します。言葉が単なる伝達の道具ではなく、いかにして私たちの社会構造、権力関係、そして多様な主体(アイデンティティ)を創造し、あるいは抑圧するのかを問い直すことで、D&Iの実践に向けたより深い理解を目指します。
言葉の哲学的な力:現実を構築する記号と意味
まず、哲学は古来より、言葉(言語)と現実、思考の関係を深く考察してきました。現代におけるD&Iの議論を哲学的に捉える上で重要な視点の一つは、言葉が単に既存の現実を指し示すのではなく、むしろ現実そのものや、私たちの認識の枠組みを構築しているという考え方です。
フェルディナン・ド・ソシュールに始まる構造主義言語学は、言語における意味が、個々の単語とそれが指し示すモノとの固定的な結びつきによって生じるのではなく、言語システム内部における単語間の「差異」によって生成されることを明らかにしました。例えば、「男性」という言葉の意味は、「女性」やその他の性別を表す言葉との関係性の中で初めて成立します。この考え方は、多様な性別やアイデンティティを捉えようとする際に、既存の二項対立的な言葉の枠組みがいかに限界を持つかを示唆します。言葉による分類は、多様なグラデーションや非線形の現実を捉えきれず、むしろ特定の枠組みの中に人々を押し込める抑圧的な力として働きうるのです。
また、哲学的な含意を持つ言語学の知見として、エドワード・サピアとベンジャミン・ウォーフの仮説(サピア=ウォーフ仮説)も重要です。これは、使用する言語構造の違いが、話し手の思考様式や世界認識に影響を与えるというものです。異なる言語が異なる現実の捉え方を生む可能性があるとすれば、多様な言語やコミュニケーションスタイルそのものを包摂することの哲学的な意義が浮かび上がります。それは単に意思疎通を円滑にするだけでなく、多様な世界観や思考の可能性を開くことにつながるからです。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの後期哲学における「言語ゲーム」の概念も、D&Iを考える上で示唆に富んでいます。ヴィトゲンシュタインは、言葉の意味が、それを「使用する」特定の社会的実践、すなわち「言語ゲーム」の中で成立すると考えました。あるコミュニティや状況における言葉の使われ方が、その言葉の意味を決定づけるのです。これは、特定の集団や文化の中で共有される言葉遣いや専門用語が、その集団への所属や排除にどのように関わるかを理解する助けになります。また、多様なコミュニティが存在し、それぞれが独自の「言語ゲーム」を持っているとすれば、異なる「言語ゲーム」の間での相互理解や翻訳の難しさ、そしてそれを乗り越えようとする努力の必要性が浮かび上がります。
言説と権力:フーコーの視点
さらに、言語が単なる記号や意味のシステムに留まらず、権力と深く結びついていることを明らかにしたのが、ミシェル・フーコーの「言説(discours)」の分析です。フーコーによれば、言説とは単なる会話やテクストの集まりではなく、特定の時代や社会において「語られうるもの」「考えられうるもの」、そして「真実として受け止められるもの」を規定する体系です。言説は知識を生み出すと同時に、権力関係を構築し、特定の「主体」や「客体」、「正常」や「異常」を定義します。
フーコーは、精神病、性、監獄といった歴史的なテーマを分析することで、特定の言説(例えば、医学的言説、法的言説)が、いかにして特定の集団(精神病者、同性愛者、犯罪者)を「周縁化」し、管理・規律の対象として位置づけてきたかを示しました。言説は、多様なあり方を「正常」という基準から逸脱したものとしてラベリングし、それによって権力を行使するのです。現代のD&Iにおいても、特定のマイノリティ集団に対するステレオタイプや偏見は、しばしば歴史的に構築された排除的な言説によって強化されています。「女性は感情的だ」「特定の民族は怠惰だ」といった言説は、単なる誤った情報ではなく、それが反復され、信じられることで、特定の集団に対する差別や不平等を構造化する権力として働くのです。
ジュディス・バトラーは、フーコーの言説論を発展させ、特にジェンダーやセクシュアリティといったアイデンティティが、いかに言説によって「パフォーマティヴに」構築されるかを論じました。私たちの「性別」や「ジェンダー」は、生物学的な事実や内面的な本質として固定的に存在するのではなく、社会的に反復される言葉や行為(言説的な実践)によって生成され、維持されている側面がある、と考えられます。この視点から見れば、D&Iにおける多様なジェンダーやセクシュアリティの承認は、単に既存の多様性を「見つける」ことではなく、既存の二元論的なジェンダー言説を問い直し、多様なアイデンティティを語りうる新たな言説空間を創造する試みであるとも言えます。
D&I実践における言葉と言説の課題と可能性
哲学的な視点から言葉と言説の力を理解することは、現代のD&I実践にどのような示唆を与えるでしょうか。
第一に、それは排除的な言説に対する深い洞察を提供します。ヘイトスピーチ、マイクロアグレッション、ステレオタイプといった問題は、単なる個人的な悪意や無知から生じるだけでなく、社会に浸透した権力的な言説の表れとして理解できます。これらの言説は、特定の集団を非人間化したり、属性によって本来の多様性を覆い隠したりすることで、その集団の主体性や承認可能性を否定する働きをします。哲学的な言説分析は、このような言葉がどのように機能し、どのような権力と結びついているのかを解き明かす手助けとなります。
第二に、それは包摂的なコミュニケーションの可能性を示唆します。排除的な言説に対抗するためには、単に特定の言葉を禁止するだけでなく、多様な声が語られ、承認される新たな言説空間を創造する必要があります。アファーマティブな言葉遣い、アイデンティティを自己規定する権利の尊重、そして異なる経験や視点を語る「物語」の承認は、まさに言説による包摂の実践と言えるでしょう。これは、支配的な言説の枠組みから逸脱するような語りや、これまで抑圧されてきた声に耳を傾けることを含みます。
また、自身のアイデンティティや経験を自身の言葉で語り、表現することは、哲学的な意味での「主体」となるための重要なプロセスです。抑圧的な言説は、しばしば特定の集団から語る力を奪い、彼らを語られる客体として位置づけます。D&Iにおけるエンパワメントは、当事者が自らの言葉を取り戻し、自身の現実を定義し、共有することを支援する営みでもあります。
結びに:言葉の力を認識し、向き合う
現代の多様性・包摂の課題は、単に異なる属性を持つ人々を同じ空間に集めることや、表面的な「違い」を尊重することに留まりません。それは、私たちが世界をどのように認識し、他者とどのように関係を結び、自身をどのように定義するか、といった根源的な問いに直面することでもあります。そして、これらの問いにおいて、言葉や言説は中心的な役割を担っています。
哲学は、言葉が単なる道具ではなく、私たちの現実認識、思考、そして権力構造そのものを深く形作っていることを教えてくれます。D&Iの実践において、私たちは言葉が持つこの創造的かつ抑圧的な力の両面を認識し、自らの言葉遣い、そして社会に満ちる多様な言説に、批判的かつ主体的に向き合っていく必要があります。それは、より公正で包摂的な社会を築くための、哲学的な基礎となる営みと言えるでしょう。
この考察が、読者の皆様が日々のコミュニケーションや社会における言説に対して、新たな視点から問いを立て、思考を深める一助となれば幸いです。