哲学で考えるD&I実践

レヴィナス哲学から考える現代D&I:他者への根源的責任

Tags: 哲学, D&I, レヴィナス, 他者論, 倫理学, 責任

現代D&Iにおける「他者」理解の課題

現代社会における多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、すなわちD&Iの実践は、私たちとは異なる他者といかに向き合い、共に生きる社会を築くかという問いに深く関わっています。しかし、一口に「他者」といっても、その存在は私たちの理解や経験の枠を超えていることがしばしばあります。文化、価値観、背景が異なる人々、あるいは社会の中で声を聞かれにくい立場にあるマイノリティなど、多様な他者との関係性を築くことは、表面的な理解だけでは難しい局面も伴います。

哲学は古来より、自己と他者の関係性について深く考察してきました。特に20世紀の思想家エマニュエル・レヴィナスは、西洋哲学における自己中心主義的な伝統に異を唱え、他者との根源的な倫理的関係性を強調しました。本稿では、レヴィナスの他者論に依拠しながら、現代D&Iの実践が直面する倫理的な課題や、他者への責任について哲学的な視点から考察を進めてまいります。

レヴィナス哲学における「他者」の特異性

レヴィナスの哲学は、西洋哲学がこれまで自己(主体)の視点から世界や他者を理解しようとしてきた傾向に対し、根本的な問い直しを試みます。彼は、フッサールの現象学における志向性(意識が何かを対象とすること)や、ハイデガーにおける現存在(ダーザイン)の自己理解といった自己中心的な枠組みに対して、他者の存在はそれらに還元されない「無限者」であると考えました。

レヴィナスにとって、他者は私が完全に把握し、私の思考や概念の中に取り込むことのできない存在です。他者は常に私を超越しており、その本質は私の理解を超えたところにあります。この他者の超越性、不可解さをレヴィナスは特に「顔(Visage)」という概念で捉え直します。彼の言う「顔」は単なる物理的な顔立ちではなく、私と対面する他者の存在そのものが発する、倫理的な呼びかけです。顔は無防備でありながらも、私に対して「殺すなかれ」と命じ、「私はあなたに依存している」と訴えかけます。

この「顔」との出会いにおいて、自己と他者の関係性は非対称的であるとレヴィナスは主張します。すなわち、私が他者を理解しようとする以前に、他者の存在そのものが私に倫理的な責任を課すのです。この責任は、私が自らの意思で引き受けるものではなく、他者との出会いによって根源的に発生するものです。レヴィナスは、このような他者への「根源的責任」こそが、私の主体性を構成すると考えました。自己は、他者への責任に応答する存在として立ち現れるのです。

レヴィナス哲学が現代D&Iに問いかけること

レヴィナスの他者論は、現代D&Iの実践に対して重要な示唆を与えてくれます。

第一に、安易な「理解」や同化圧力への批判です。D&Iにおいては、異なる文化や背景を持つ人々を「理解」することが重視されます。しかし、レヴィナスの視点から見れば、他者を「理解」しようとすることは、往々にして他者の超越性や不可解さを無視し、自己の既存の概念や知識の枠組みに他者を閉じ込めてしまう危険性を孕んでいます。真の包摂は、他者の差異を消去し、自己の側に同化させることではありません。レヴィナス哲学は、他者の不可解さ、異質さをそのままに尊重することの重要性を私たちに思い起こさせます。

第二に、構造的差別に直面する他者への倫理的応答です。社会の構造的な不正義や不平等によって声を聞かれず、傷つきやすい立場に置かれている人々は、まさにレヴィナスが言う「顔」に出会うべき他者です。彼らの「顔」は、単なる統計上の数字ではなく、具体的な存在として、私たちに倫理的な責任を訴えかけています。レヴィナスによれば、この責任は彼らが私の助けを必要としているから生まれるのではなく、彼らが私と対面する「他者」であることから根源的に発生するものです。D&I実践は、このような根源的な責任感に根差しているべきだと言えるでしょう。

第三に、責任の「無限性」と限界です。レヴィナスは他者への責任を「無限」であると語ります。これは、責任が完了することなく、常に新たな責任が発生し続けることを意味します。D&Iの実践においても、一度取り組みを行えば全てが解決するというわけではありません。常に新たな課題や、これまで見えていなかった他者の「顔」との出会いがあり、それに応答し続ける責任があることを示唆しています。同時に、「無限の責任」は、現実の社会システムや個人の能力において常に限界を伴います。レヴィナス哲学は根源的な倫理の次元を提示しますが、それを具体的な制度設計や政策、あるいは実践的なアクションにどう落とし込むかは、アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチや、ロールズの正義論、あるいはケアの倫理といった他の哲学的議論を参照しながら、現実的なバランスを見出す必要があります。

結論:他者の「顔」と向き合うD&I

レヴィナスの他者論は、現代D&Iを単なる制度や権利の問題としてだけでなく、私たち一人ひとりが、私とは異なる他者の「顔」とどう向き合い、その倫理的な呼びかけにどう応答するかという、根源的な倫理の問いとして捉え直す視点を提供します。

容易には理解できない、私の範疇には収まらない他者の存在を受け入れ、その不可解さを尊重し、傷つきやすい「顔」に対する根源的な責任を引き受けること。これは、紋切り型の多様性理解や表面的な包摂の議論を超え、より深く、そして困難を伴う倫理的基盤の上に、真に包摂的な社会を築こうとする試みであると言えるでしょう。

あなたが現代社会の多様性や不平等について考える際、レヴィナスの言う他者の「顔」は、あなたにどのような問いかけを発しているでしょうか。この根源的な問いこそが、D&I実践における倫理的な compass となりうるのかもしれません。