哲学で考えるD&I実践

現代D&Iにおける「身体」の問い:哲学はいかにその多様性を論じてきたか

Tags: 哲学, 身体論, 多様性, フーコー, ジェンダー

はじめに:D&Iにおける「身体」という見過ごされがちな問い

現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)は不可欠な理念として広く認識されるようになりました。ジェンダー、性的指向、人種、民族、障害、年齢、宗教、文化など、様々な属性に基づく多様性が尊重され、誰もが社会の一員として包摂されることの重要性が論じられています。

しかし、これらの多様性の多くは、私たち自身の「身体」に深く根ざしています。たとえば、性別は身体のあり方と密接に関わり、人種や民族は身体的特徴と結びつけられ、障害は身体機能の多様性として現れます。私たちのアイデンティティや社会での位置づけは、しばしば身体を通じて認識され、規定されます。

にもかかわらず、D&Iに関する議論において、「身体」そのものが哲学的な問いの対象として深く考察される機会は必ずしも多くありません。身体は単なる生物学的な「もの」として扱われがちですが、哲学は古くから「身体」を単なる物質としてではなく、私たちの経験、アイデンティティ、そして社会との関わりを根源的に規定する要素として捉えてきました。

本稿では、現代の多様性・包摂の課題をより深く理解するために、「身体」をめぐる哲学的な議論に目を向けます。身体がいかに捉えられてきたか、そしてそれが現代のD&I問題にいかに示唆を与えるのかを、いくつかの重要な哲学的な視点から考察していきます。

身体の捉え方の変遷:デカルトから現象学へ

私たちの「身体」に対する理解は、哲学史の中で様々な変遷を遂げてきました。近代哲学の父とされるルネ・デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という有名な命題に示されるように、意識や思考といった精神(res cogitans)と、広がりを持つ物質としての身体(res extensa)を截然と区別する心身二元論を提唱しました。この考え方では、精神こそが人間の本質であり、身体は単なる精神の器や道具とみなされがちでした。

このデカルト的な身体観は、現代の身体に対する見方にも影響を与えています。たとえば、身体を客観的なデータ(身長、体重、遺伝情報など)の集まりとして捉えたり、身体的な特徴や機能の差異を単なる生物学的な「欠損」や「異常」として扱ったりする視点は、身体を「もの」として客観化し、精神から切り離して捉える傾向と無縁ではありません。

しかし、20世紀に入ると、この客観化された身体観に対して、エトムント・フッサールやモーリス・メルロ=ポンティといった現象学の哲学者たちが異議を唱えました。彼らは、私たちが生きているのは、思考する精神だけではなく、世界に関わり、世界を経験する「生きられた身体」(corps propre, lived body)であると主張しました。

メルロ=ポンティによれば、「生きられた身体」は、私たちが世界を認識し、行為する上での基盤であり、主体そのものです。私たちは身体を通じて世界に志向し、世界を経験し、世界に意味を与えます。椅子に座る、歩く、物を持つといった日常的な行為は、身体が意識的に思考することなく、環境と一体となって遂行するものです。このような「身体図式」(schema corporel)は、個人の経験や文化的な環境の中で形成されます。

この現象学的な身体観は、多様性を考える上で重要な示唆を与えます。身体は単なる物質ではなく、個人の経験や世界との関わりの中で常に意味が生成される「生きられた身体」であるならば、身体的な差異もまた、単なる客観的なデータの違いではなく、それぞれの個人が世界を異なって経験し、異なって関わるあり方として捉え直すことができます。たとえば、障害のある身体は、ない身体に比べて「劣っている」のではなく、世界に対する異なる種類の関わり方を可能にする「生きられた身体」として理解されるべきだ、という視点に繋がる可能性があります。

権力による身体の規律と多様性の抑圧(フーコー)

哲学における身体論は、現象学的なアプローチだけでなく、ミシェル・フーコーに代表される権力論の視点からも展開されました。フーコーは、近代社会において権力がどのように個々の身体に作用し、身体を規律し、正常なものとそうでないものに区分けしてきたかを詳細に分析しました。

フーコーによれば、近代の権力は、かつての王権のような、主権者が臣民を殺すか生かすかを決定するような剥き出しの暴力によるものではなく、むしろ生を管理し、生産性を高め、身体を「従順で有用な」ものとするための規律(discipline)として作用します。学校、病院、工場、兵営、そして監獄といった施設は、身体を監視し、訓練し、空間的・時間的に配置し、標準化するための規律の技術が発達した場所です。

この規律権力は、身体的な差異を「逸脱」や「異常」として分類し、矯正や排除の対象としました。たとえば、病気や障害のある身体、特定の性的指向を持つ身体、規範から外れた行動をとる身体などは、規律の網の目によって捕捉され、「正常」な状態へと導くための介入がなされました。フーコーの議論は、身体の多様性が単なる自然な差異ではなく、社会的な権力関係によって「正常」と「異常」に区分され、特定の種類の身体が抑圧されてきた歴史的なプロセスを明らかにします。

現代のD&I実践において、このようなフーコー的な視点は極めて重要です。私たちは無意識のうちに、特定の身体的特徴(例:痩せていること、肌の色が白いこと、健常であること)を「正常」あるいは「望ましい」ものとし、それ以外の身体を「問題がある」ものとして捉えていないでしょうか。権力による身体の規律の歴史を理解することは、私たちが内面化している身体に関する規範や偏見に気づき、多様な身体を包摂するためには、単なる意識改革だけでなく、社会的な制度や構造そのものを問い直す必要があることを示唆します。

ジェンダーと身体:パフォーマティヴィティによる構築(バトラー)

身体の多様性を考える上で、ジェンダーという問題は避けて通れません。ジュディス・バトラーは、『ジェンダー・トラブル』などの著作において、ジェンダーが単なる生物学的な性別(sex)に基づいて自然に生じるものではなく、社会的な規範の中で反復的に行われる行為(パフォーマティヴィティ)によって構築されるものであることを論じました。

バトラーによれば、私たちは「女らしさ」や「男らしさ」といったジェンダー規範に従うことで、自身のジェンダーを身体化し、再生産しています。これは、意識的に演じているというよりは、無意識のうちに行われる身体的な習慣や身振り、言葉遣いなどに現れます。異性愛規範が社会的に支配的である中で、男性・女性という二元的なジェンダーカテゴリーに合致しない身体や、規範に沿わないジェンダー表現を行う身体は、「不自然」あるいは「理解できない」ものとして排除される傾向にあります。

バトラーの議論は、性別やジェンダーの多様性が、単なる生まれつきの身体的な違いとして還元できないことを示しています。私たちの身体は、社会的な規範や期待によって形作られ、解釈され、意味づけられる場所です。トランスジェンダーの人々やノンバイナリーの人々が経験する身体と自己のあり方、あるいは社会からの認識のズレは、生物学的な性別と社会的に構築されるジェンダー、そしてそれが身体にいかに深く根差しているかという哲学的な問題を提起しています。

哲学が現代D&Iにもたらす視座

ここまで見てきたように、身体をめぐる哲学的な議論は、単なる生物学的な差異にとどまらない、身体の多様性の深い理解を可能にします。

これらの哲学的な視点は、現代のD&I実践において、私たちが無意識のうちに持つ身体に関する規範や偏見に気づき、身体的な差異を単なる問題としてではなく、人間存在の多様なあり方として肯定的に捉えるための枠組みを提供します。また、制度や環境が特定の身体を排除する構造になっていることへの批判的な視点をもたらし、より包摂的な社会を構築するためには、身体をめぐる社会的な規範や権力関係そのものを問い直す必要があることを示唆します。

結論:身体の問いから多様性・包摂の未来へ

現代D&Iにおける「身体」の問いは、単に個々の身体的な違いを認識することに留まりません。それは、私たちの存在の根源である「身体」が、世界といかにかかわり、社会的な規範や権力によっていかに形作られ、そして多様な形でいかに生きられているかという、深い哲学的な問いに繋がっています。

デカルト的な心身二元論から現象学的な「生きられた身体」へ、そして権力による身体の規律やジェンダーの身体化といった議論を経て、哲学は身体の多様性が持つ複雑さと深さを明らかにしてきました。これらの哲学的な洞察は、現代社会が直面する多様性・包摂の課題、特に障害、ジェンダー、人種、外見といった身体に関連する問題に対して、新たな理解と批判的な視点をもたらします。

身体の多様性を深く理解することは、単に他者を「認める」ことに留まらず、私自身の身体がいかに社会や文化の中で位置づけられ、意味づけられているのかを省察する契機ともなります。哲学が提供する身体をめぐる問いは、現代D&Iの議論に厚みと深みを与え、すべての身体がそれぞれのあり方で尊重され、包摂される社会の実現に向けた思考をさらに深めるための重要な羅針盤となるでしょう。

どのような身体のあり方が「正常」とされ、どのような身体が排除されがちなのか。私たちは無意識のうちに、どのような身体的な規範を内面化しているのか。これらの問いに哲学的に向き合うことから、多様性・包摂の実践はさらに根源的なものへと発展していくと考えられます。