「物語(ナラティブ)」は現代D&Iにいかに寄与するか:哲学が探る自己、他者、社会の構成
はじめに:D&Iを深く理解するための「物語」という視点
現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)は、単なるスローガンとしてではなく、社会を構成する根幹的な課題として認識されています。しかし、D&Iへの取り組みが進む一方で、表面的な理解に留まったり、個別の問題に終始してしまったりする状況も見られます。多様な人々が真に包摂される社会を構想するためには、人間存在や社会構造そのものに関する深い考察が不可欠であり、ここで哲学的な視点が大きな力となります。
本記事では、多様性・包摂の問題を理解する上で、「物語(ナラティブ)」という哲学的な概念がどのような示唆を与えるのかを掘り下げていきます。私たちの自己理解、他者との関わり、そして社会全体の構造が、いかに「物語」によって形作られているのかを考察することで、現代のD&I課題をより深く捉え直すことを目指します。
哲学における「物語(ナラティブ)」とは何か
哲学において「物語(ナラティブ)」は、単に過去の出来事を時系列で並べた記録ではありません。それは、特定の出来事に意味を与え、自己や他者、あるいは社会現象を理解するための解釈の枠組みであり、構成のプロセスでもあります。
哲学者ポール・リクールは、人間が自身の生を理解する上でナラティブが中心的役割を果たすと論じました。私たちは、自身の過去の経験、現在の状況、未来への展望を一つの「物語」として紡ぎ合わせることで、自己を連続性の中に位置づけ、アイデンティティを形成します。この物語は固定されたものではなく、常に再解釈され、更新されていきます。
アラスデア・マッキンタイアもまた、人間の行為や合理性は、それが位置づけられるナラティブな文脈の中でしか理解できないと主張し、共同体が共有する物語(伝統)の重要性を説きました。
このように、哲学的な視点におけるナラティブは、単なるフィクションや作り話ではなく、私たちが現実を把握し、意味を付与し、自己や社会を構成していくための根本的な認識の形式として捉えられます。
自己の物語とアイデンティティの多様性
D&Iを考える上で、多様なアイデンティティの理解は不可欠です。そして、アイデンティティは、一人ひとりが持つ「自己の物語」と深く結びついています。
私たちの自己物語は、個人的な経験だけでなく、属する文化、社会、歴史、そして他者との関係性の中で紡がれます。しかし、社会にはしばしば、特定の規範や「正常」とされる基準に基づいて、語るべき自己物語の「型」が存在します。例えば、特定の性別、性的指向、人種、障がい、社会経済的背景を持つ人々に対して、ステレオタイプに基づいた物語が押し付けられたり、彼ら自身の経験に基づく物語が「異例」として扱われたりすることがあります。
ジュディス・バトラーの議論に触れると、社会的に「認識可能」(intelligible)であること、すなわち社会の規範的な枠組みの中で理解されうる存在であることの重要性が浮かび上がります。規範に合わない自己物語を持つ人々は、その存在そのものが認識されにくく、不可視化されたり、周縁化されたりする困難に直面する可能性があります。彼らの物語は、主流の物語から「逸脱」していると見なされ、語る機会や場所を与えられないことも少なくありません。
多様なアイデンティティを包摂するためには、まず一人ひとりが自身の経験に基づく自己物語を自由に語り、それが承認される安全な空間が必要です。これは、単に個人的な苦労話を聞くということではなく、多様な生き方や経験が持つ意味や価値を、社会全体が認識し、尊重することへと繋がります。
他者の物語への耳を傾けること:共感と理解の基盤
D&Iの重要な要素の一つに、他者への理解と共感があります。これは、自分とは異なる経験や視点を持つ人々の「物語」に、誠実に耳を傾けることから始まります。
私たちは、他者の行動や考え方を、自分の持つ既存の物語や価値観を通じて解釈しがちです。しかし、多様な他者を理解するためには、自身の物語の枠組みを一時保留し、他者の語る物語(経験、感情、価値観、世界観)に開かれる姿勢が必要です。
このプロセスは、哲学における他者論や倫理学とも深く関連します。エマニュエル・レヴィナスは、他者の「顔」との出会いにおいて、自己の全体性を超えた根源的な責任が生じると論じました。他者の物語に触れることは、まさにこの「顔」との出会いに似ています。そこでは、自分の理解を超えた経験が開示され、応答を求められます。
現代D&Iにおける「認識論的正義」の議論も、他者の物語の重要性を強調します。特定のグループの人々の証言(ナラティブ)が、社会的な偏見や不信感によって軽視されたり、不当に扱われたりすることがあります。これは、知識や真実の形成において、誰の「声」(物語)が有効とされるかという問題です。包摂的な社会は、周縁化された人々の証言に耳を傾け、彼らの経験に基づく知識や理解を正当に評価する仕組みを備えている必要があります。
社会の物語といかに向き合うか:歴史認識と構造的排除
私たちのアイデンティティや他者理解は、個人間の関係性だけでなく、社会全体が共有する大きな「物語」にも深く影響されます。国民国家の歴史観、特定の文化や価値観を「正常」とする物語、特定のグループに対するステレオタイプや偏見を含む物語などがこれにあたります。
これらの社会の物語は、ときに特定の集団を英雄視したり、逆に周縁化・悪魔化したりすることで、社会構造における不平等を強化する役割を果たします。例えば、ある国の輝かしい発展の物語の陰で、植民地支配やマイノリティへの抑圧の歴史が語られなかったり、矮小化されたりすることがあります。このような主流の物語は、それによって不利益を被った人々の経験やアイデンティティを否定し、構造的な排除を固定化させます。
批判理論やポストコロニアリズムの哲学は、まさにこのような支配的な社会物語を解体し、その裏に隠された権力構造や不正義を暴くことに力を入れてきました。彼らは、主流の物語に対抗する「オルタナティブな物語」、すなわち周縁化された人々の視点からの歴史や社会の語り直しを試みます。
多様性・包摂を目指す社会においては、私たちが当然だと思っている社会の物語を批判的に問い直す作業が必要です。「当たり前」とされている歴史、価値観、規範が、誰の視点から語られた物語なのか、そしてそこから誰の物語が抜け落ちているのかを常に意識することです。そして、多様な背景を持つ人々が、自身の視点から社会や歴史を語り、その物語が社会全体で共有される空間を創造することが求められます。
物語の力をD&I実践に活かす
物語(ナラティブ)という視点は、単なる分析ツールに留まりません。それは、D&Iを推進するための実践的な力ともなり得ます。
- 教育における物語: 多様な文化、歴史、経験に関する物語に触れることは、共感性や異文化理解を育む上で有効です。ステレオタイプを乗り越えるためには、固定化された物語ではなく、生きた多様な物語に触れる機会を提供することが重要です。
- 対話とエンパワメント: 違いを乗り越えた対話は、互いの物語を共有し、理解するプロセスです。周縁化された人々が自身の声を取り戻し、経験を語ることは、自己肯定感を高め、社会的な承認を得る上でのエンパワメントに繋がります。
- アートとメディア: 文学、映画、演劇、ビジュアルアートなどの表現活動は、多様な物語を社会に提示し、人々の認識を変容させる大きな力を持っています。これまで語られなかった物語を可視化することは、包摂的な文化を醸成するために不可欠です。
結論:多様な物語が響き合う社会へ
「物語(ナラティブ)」という哲学的視点から現代D&Iの課題を考察することで、私たちは、多様性・包摂が単に統計的な数値や制度の整備に留まらない、人間存在と社会のあり方に関わる深い問題であることを再確認しました。
自己のアイデンティティは物語として紡がれ、他者を理解するにはその物語に耳を傾ける必要があります。そして、社会の構造的な排除は、しばしば支配的な物語によって正当化されたり、不可視化されたりします。真に多様で包摂的な社会とは、一人ひとりの自己物語が尊重され、多様な他者の物語に開かれ、そして社会全体の物語が絶えず問い直され、多様な声によって語り直される空間であると言えるでしょう。
哲学が私たちに問いかけるのは、どのような物語が語られ、どのような物語に耳を傾けるべきか、そしていかにして多様な物語が安全に響き合う社会を構築するかという根源的な問いです。これらの問いは、私たちが現代社会のD&I課題に継続的に取り組む上で、常に立ち返るべき羅針盤となるでしょう。