哲学で考えるD&I実践

哲学が問うD&Iにおける「能力」:アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチ

Tags: 哲学, D&I, アマルティア・セン, ケイパビリティ・アプローチ, 不平等, 多様性, 包摂

はじめに:資源の平等だけでは不十分なのか

現代社会における多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、いわゆるD&Iの実践は、単に異なる属性を持つ人々を組織や社会に含めるだけでなく、彼らが能力を最大限に発揮し、社会の構成員として等しく尊重される状態を目指すものです。この目標を達成する上で、私たちはしばしば「平等」について考えます。例えば、資源や機会の均等な分配は、公正な社会の重要な要素であると広く認識されています。しかし、哲学的な視点から深く考察すると、資源や機会を形式的に平等に分配するだけでは、実質的な不平等を解消するには不十分である可能性が見えてきます。なぜなら、人々は様々な面で多様であり、同じ資源や機会を与えられても、それを活用して「何をなしうるか」という能力に違いが生じうるからです。

本稿では、この「何をなしうるか」という能力に焦点を当てた経済学者・哲学者のアマルティア・センが提唱した「ケイパビリティ・アプローチ」を取り上げ、それが現代のD&I問題を理解し、より実質的な包摂を考える上でどのような示唆を与えてくれるのかを考察します。資源や機会の平等を超えた、個々人の多様性を考慮した公正さの追求について、哲学的な観点から掘り下げていきます。

ケイパビリティ・アプローチとは何か

アマルティア・センが提示したケイパビリティ・アプローチは、人々のウェルビーイングや社会の公正さを評価する際の根本的な視点を問い直すものです。従来の経済学では、人々の豊かさや幸福は所得や財産の量(資源)や、そこから得られる効用(満足度)によって測られることが一般的でした。しかしセンは、これだけでは人間的な豊かさや自由を十分に捉えきれないと考えました。

センの考えの出発点にあるのは、「人が実際に何をすることができるか、何を達成することができるか」という点です。彼はこれを説明するために、いくつかの重要な概念を区別しました。

  1. 財(Goods): これは所得や資源など、人々が所有したり利用したりできる物理的・経済的な対象です。
  2. 機能(Functionings): これは人が「行うこと」や「であること」といった達成状態を指します。例えば、「十分に栄養を摂っていること」「健康であること」「教育を受けていること」「社会に参加していること」などが機能にあたります。機能は、財をどのように活用したかの結果とも言えます。
  3. ケイパビリティ(Capability): これは、人が達成しうる「機能」の組み合わせ、すなわち人が「何をすることができるか」「どのような生き方を選択できるか」という実質的な自由や能力を指します。特定の機能(例:「健康であること」)を達成していること自体ではなく、健康であること、あるいは病気であることなど、多様な機能の中から選択し、達成する潜在的な能力がケイパビリティです。センにとって、個人の自由や機会の平等とは、このケイパビリティの平等に他なりません。

ケイパビリティ・アプローチの核心は、人々のウェルビーイングや社会の公正さを評価する際に、保有する「財」の量やそこから得られる「効用」だけでなく、その人が「実際に何を達成できるか」という「機能」の幅や、それを選択しうる「ケイパビリティ」に焦点を当てるべきだという点にあります。

ケイパビリティ・アプローチが照らす「多様性」の問題

なぜ、ケイパビリティに焦点を当てることが、D&Iという観点から重要なのでしょうか。その理由は、個人の「多様性」が、同じ量の「財」を「機能」や「ケイパビリティ」に変換する能力に影響を与えるからです。

センは、人々が持つ様々な特徴(年齢、性別、身体的能力、健康状態、地理的環境、社会的背景など)が、財を機能やケイパビリティに変換する「変換要素(conversion factors)」として働くことを指摘しました。例えば、身体に障害がある人は、階段しかない建物では、たとえ健常者と同じように建物に入る権利や理由があったとしても、「建物に入る」という機能(達成状態)を実現するためのコストや労力が異なります。あるいは、特定の健康上の問題を抱える人は、同じ所得を持っていても、健康を維持するための医療費が多くかかるため、他の機能を達成するための資源が相対的に少なくなります。

このように、個人の多様性は、単なる属性の違いではなく、社会の資源や機会を利用して「何を達成できるか」という実質的な能力に直接的な影響を与えるのです。形式的に資源や機会を平等に分配しても、個人の変換要素の違いによって、結果として得られる機能やケイパビリティには大きな差が生じうる。これが、資源や効用に基づく従来の公正さの議論だけでは、実質的な不平等を捉えきれない理由です。

D&Iの実践において、ケイパビリティ・アプローチは、私たちが目指すべき「包摂」が、単に多様な人々を「受け入れる」ことに留まらず、彼らがそれぞれの多様性を持ちながらも、自らが価値を置く生き方を選び取り、重要な機能を達成できるような「実質的な能力」を確保することにあるという視点を提供します。それは、障害のある人が建物に入れるようにバリアフリーを整備すること、言語の壁がある人が情報にアクセスできるよう多言語対応を進めること、育児や介護の責任を負う人がキャリアを継続できるよう柔軟な働き方を可能にすることなど、個々の多様な状況に応じたサポートや環境整備の重要性を強調します。

D&Iにおけるケイパビリティ・アプローチの応用と示唆

ケイパビリティ・アプローチは、現代のD&Iを取り巻く様々な課題に対して、具体的な問いかけやアプローチのヒントを与えてくれます。

ケイパビリティ・アプローチはまた、インターセクショナリティの議論とも関連を持ちます。複数のマイノリティ属性(例:女性であり、かつ人種的マイノリティであり、かつ障害がある)を持つ人々は、単一の属性を持つ人々と比較して、財をケイパビリティに変換する上での困難が複合的に増大する可能性があります。ケイパビリティの視点から不平等を見ることは、このような交差する差別の影響をより深く理解し、対応策を考える上でも有効です。

ただし、ケイパビリティ・アプローチにも課題がないわけではありません。具体的にどのような「機能」や「ケイパビリティ」を重要視し、どの程度まで保障すべきかという点については、社会的な合意形成や価値判断が不可欠となります。また、個人の多様性をどこまで考慮し、それに応じた支援をどのように実現するかは、リソースの制約や実践的な困難を伴います。

結論:実質的な包摂への哲学的問い

アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチは、現代のD&I実践に対して、資源や機会の形式的な平等にとどまらない、実質的な包摂への重要な哲学的視点を提供します。それは、一人ひとりが持つ固有の多様性を踏まえ、彼らが自らの可能性を最大限に実現し、価値ある生き方を選択できるような「能力」を社会がいかに保障できるかという問いを私たちに突きつけます。

哲学は、抽象的な概念を探求するだけでなく、私たちの社会が直面する具体的な問題に対して、新たな理解の枠組みや思考のツールを提供します。ケイパビリティ・アプローチは、D&Iを単なる倫理的な理想や法的な義務として捉えるだけでなく、個人の尊厳と自由を基礎とした、より根源的な公正さの追求として位置づけることを可能にします。

現代社会の複雑な不平等や排除の構造を理解し、真に包摂的な社会を構築するためには、資源や機会の分配だけでなく、人々がその多様な生において「何を達成できるか」という実質的な能力に光を当てる視点が不可欠です。ケイパビリティ・アプローチは、私たちにそのための強力なレンズを与えてくれると言えるでしょう。私たちは、センの問いかけを胸に、個々の多様性を力に変え、誰もが自らの「能力」を開花させられる社会の実現に向けて、思考と実践を深めていく必要があります。