哲学で考えるD&I実践

哲学が問う現代D&Iにおける感情の二面性:偏見と連帯の可能性

Tags: 感情, D&I, 偏見, 連帯, 哲学, 倫理, 社会学

はじめに:D&I課題における感情の重要性

現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)の推進は喫緊の課題となっています。企業、組織、地域社会など、あらゆるレベルで多様な人々が互いを尊重し、能力を発揮できる環境を構築するための議論や実践が進められています。このD&Iを考える際、しばしば制度や政策、あるいは合理的な議論に焦点が当てられがちですが、人々の感情が果たす役割も見逃すことはできません。

感情は、私たちが他者や社会と関わる上で根源的な影響を与えます。偏見や差別といった排除のメカニズムには、特定の集団に対する嫌悪、恐れ、軽蔑といった感情が深く関わっています。一方で、共感、連帯、あるいは他者への関心といった感情は、異なる背景を持つ人々を結びつけ、包摂的な関係性を築くための基盤となり得ます。

本記事では、この感情が現代のD&I課題において持つ二面性——すなわち、偏見の源泉としての側面と、連帯や包摂の可能性としての側面——を、哲学的な視点から深く考察します。哲学は古来より人間の感情や情動について思索を重ねてきました。理性との関係、倫理的判断への影響、あるいは社会や政治における役割など、様々な角度から感情を論じてきた哲学の知見は、現代のD&I問題を理解し、より良い社会を構想する上で重要な示唆を与えてくれるでしょう。

感情が偏見と排除をいかに生み出すか

哲学史において、感情はしばしば理性や合理性の対立物として捉えられてきました。例えば、ストア派の哲学では、パトス(情念)は理性的な判断を曇らせ、魂の平静を乱すものとして克服されるべき対象とされました。デカルトもまた、情念を精神の理性的な判断を阻害する原因と見なし、その制御を説きました。このような見方によれば、偏見や差別といった非合理な行動は、理性ではなく制御不能な感情に起因するものとして説明される可能性があります。特定の集団に対する根拠のない嫌悪や恐れといった感情が、理性的な判断を歪め、不当な扱いに繋がるという理解です。

しかし、感情を単なる非合理的な衝動と見なすだけでは、その社会的な構築性や政治的な意味合いを見落とすことになります。スピノザは、感情(情動、affectus)を単なる内的な状態ではなく、身体と外界との相互作用によって生じる力能の変化として捉え、これを理解することこそが自由への道だと論じました。彼の哲学は、感情が単なる個人的な問題ではなく、社会的な環境や関係性の中で形成されることを示唆しています。

現代の哲学や社会学では、偏見やスティグマといった排除に繋がる感情は、単なる個人的な感情ではなく、社会的な規範や言説によって深く形成されるものと理解されています。ミシェル・フーコーは、特定の身体や行動様式が「正常」から逸脱していると見なされ、規律権力によって排除・管理されるプロセスを分析しました。この「正常」からの逸脱という見方は、しばしば感情的な嫌悪や不快感と結びついています。例えば、ある集団に対する根拠のない恐れや嫌悪感は、メディアや文化の中で繰り返されるネガティブなイメージや物語によって増幅され、社会全体に共有される感情となることがあります。このような社会的に構築された感情は、特定の集団を「他者化」し、排除の構造を強化する力として作用します。

また、イグナティウス・ホネットの承認論は、承認の欠如が個人に与える感情的な苦痛を指摘します。蔑視や不当な扱いを受けることは、単に物理的な苦痛だけでなく、自己評価の低下や羞恥心といった深い感情的な傷をもたらします。これらの感情は、社会からの疎外感を強め、包摂的な社会への参加を困難にします。偏見に基づく否定的な感情は、受け手において承認の欠如という苦痛を生み出し、排除を内面化させてしまうという側面があるのです。

感情がいかに連帯と包摂を可能にするか

一方で、感情は偏見や排除とは真逆の、連帯や包摂の基盤ともなり得ます。アリストテレスは、友愛(フィリア)を単なる感情ではなく、共同体を支える倫理的な態度として重視しました。これは、他者に対する肯定的な感情や関係性が、社会全体の結びつきを強めることを示唆しています。

近代哲学においては、アダム・スミスが『道徳感情論』において共感(sympathy、後のempathyに近い意味合いも含む)の重要性を論じました。彼は、私たちが他者の感情を想像的に追体験することで、互いの感情を調整し、社会的な調和を保つと考えました。共感は、異なる立場にある他者の経験や感情を理解しようとする試みであり、多様な人々が互いの視点を想像し、分かり合うための重要な感情的な能力と言えます。ケアの倫理(キャロル・ジルガン、ネル・ノディングズなど)もまた、特定の関係性における感情的な応答性や配慮を倫理的な判断や行動の基盤として重視します。これは、他者への感情的な繋がりや責任感が、包摂的なケアの実践に不可欠であることを示しています。

さらに、感情は社会的な連帯感を育む上でも重要な役割を果たします。リチャード・ローティは、哲学の役割の一つとして、他者の苦痛に対する「残酷さ」への感受性を高めることを挙げました。彼にとって、連帯とは知的な合意というよりも、共通の敵や目標に対する感情的な結びつき、あるいは「われわれ」という感覚に基づいています。多様な人々が、特定の社会的不正義に対して共通の怒りや悲しみを感じたり、あるいは共に理想の社会像に対する希望を共有したりすることは、強い連帯感を生み出し、包摂的な社会を実現するための行動へと繋がります。

感情はまた、自己と他者の「差異」を単に乗り越えるべき障害と見なすのではなく、むしろ肯定的に受け入れるための基盤ともなり得ます。他者のユニークな感情表現や経験に対する好奇心や関心といった肯定的な感情は、多様な個性を尊重し、違いを豊かさとして捉える視点を育みます。これは、単なる多様性の「容認」を超え、積極的に多様な存在を「歓迎」する包摂的な態度に繋がる可能性があります。

感情の倫理的な位置づけと政治的な向き合い方

感情が持つこの両義性——偏見を生み出す力と、連帯を可能にする力——を踏まえると、D&Iを推進するためには、感情を単に無視するのではなく、その複雑な働きを深く理解し、倫理的・政治的に向き合う必要があります。

一つの課題は、感情をどのように倫理的に評価するかという点です。特定の感情(例えば、他者への嫌悪)は倫理的に問題があると言えるでしょうか。あるいは、重要なのは感情そのものではなく、それに続く行動だけでしょうか。多くの哲学者は、感情そのものが倫理的な意味を持つと考えます。例えば、他者の苦痛に対する無関心は、それ自体が倫理的な欠如と見なされることがあります。感情を倫理的に評価するということは、どのような感情がより善き社会や関係性を築く上で望ましいのかを問い直すことに繋がります。

また、感情は個人的な内面の問題であると同時に、社会的な構造や権力関係によって形成され、また政治的な影響力を持つものです。感情がどのようにして社会的に共有され、特定の規範や価値観を強化するのかを批判的に分析することは重要です。例えば、人種やジェンダーに関するステレオタイプと結びついた感情は、歴史的な権力関係の中で培われてきました。これらの感情を問い直し、変容させるためには、個人の内面に向き合うだけでなく、感情を形成する社会構造や文化的な言説に働きかける政治的なアプローチも必要になります。

感情を理性的に「制御」しようとするアプローチは、感情を否定的に捉える哲学的な伝統に根差しています。しかし、感情を単に抑圧するのではなく、その多様性や複雑さを認めつつ、より建設的な形で社会や他者との関係性の中で活かす道を探る必要があります。これは、感情の「教育」や「涵養」といった側面に関わる議論にも繋がりますが、誰がどのような感情を「正しい」と定義し、どのようにそれを実現するのかという権力的な問題も伴います。

結論:感情と向き合う哲学的な探求の意義

本稿では、現代のD&I課題において、感情が偏見や排除の源泉となりうる一方で、連帯や包摂の基盤ともなりうる二面性を持つことを、哲学的な視点から考察しました。偏見は社会的に構築された感情と深く結びついて排除の構造を強化する一方、共感や連帯といった感情は多様な人々を結びつけ、より包摂的な社会を目指す原動力となります。

感情は、単なる個人的な内面状態ではなく、社会や政治と深く結びついた複雑な現象です。その倫理的な位置づけを問い、社会的に構築される感情の力学を理解し、より望ましい感情のあり方やその役割を哲学的に探求することは、現代のD&I課題に取り組む上で不可欠な作業と言えるでしょう。

D&Iの実践は、制度や政策の変更だけでなく、人々の感情、そしてそれによって形作られる他者へのまなざしや態度を変えていくプロセスでもあります。感情の哲学的な探求は、私たち自身の内なる感情や、社会に流通する様々な感情に意識的に向き合い、より共感的で連帯に基づいた関係性を構築するための新たな視点と問いを提供してくれます。

読者の皆様も、日々の経験の中で抱く様々な感情が、自分自身の他者理解や、社会における多様性・包摂のあり方にどのように影響しているのかを、哲学的な視点から深く考えてみてはいかがでしょうか。