哲学が問う現代D&Iと記憶:過去の不正義はいかに未来の包摂を形作るか
はじめに:記憶と現代社会のD&I課題
現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)の推進は喫緊の課題となっています。しかし、その議論を進める際に、過去の歴史における不正義や差別の記憶がしばしば立ち現れ、対立や困難を生むことがあります。奴隷制、植民地主義、ジェンダーや人種に基づく構造的な差別など、過去の出来事とその記憶は、現在の社会関係、力関係、そして人々の間に横たわる信頼や不信に深く根差しています。
単に現状の不平等を是正するだけでなく、過去から現在へと引き継がれる課題に向き合うためには、「記憶」という問題そのものを深く理解する必要があります。本稿では、哲学的な視点から、この「記憶」が現代のD&I実践といかに関わるのかを考察します。記憶は単なる個人的な記録にとどまらず、いかに社会的に形成され、共同体のあり方や未来の包摂性に影響を与えるのかを探ります。
記憶の哲学:個人的なものから社会的なものへ
記憶は一見、個人の内面的な経験として捉えられがちです。しかし、哲学は古くから記憶の複雑な性質を探求してきました。例えば、アンリ・ベルクソンは、記憶を単なる過去の再現ではなく、絶えず変化し、現在の経験と結びつきながら生成される動的なものとして論じました。また、フレデリック・ニーチェは、記憶が時に人間にとって重荷となり、忘却の力(能動的忘却)がいかに必要かを示唆しました。
さらに、記憶は社会的な側面を持ちます。フランスの社会学者モーリス・アルヴァックスは「集合的記憶(mémoire collective)」という概念を提唱しました。これは、記憶が個人的な脳の中に閉じ込められているのではなく、集団や共同体の中で共有され、対話や象徴、制度を通じて維持・変容していくという考え方です。家族、地域、国家といった集団は、特定の出来事を共有された記憶として持ち、それが集団のアイデンティティや世界観を形成します。
この集合的記憶の概念は、過去の不正義を考える上で非常に重要です。奴隷制や植民地主義といった歴史的な出来事は、被害を受けた集団だけでなく、加害に関与した集団、そして社会全体の中に集合的な記憶として刻まれます。この記憶は、単なる歴史的事実の認知にとどまらず、感情、価値観、相互の認識(他者に対する偏見や恐れ、あるいは不信感)を伴います。現代のD&I課題における「マイクロアグレッション」や「構造的差別」といった問題は、こうした集合的記憶に根差した無意識の偏見や規範によって強化されている側面があると言えます。
過去の不正義の記憶と現在の不包摂
過去の不正義の記憶は、現代の包摂的な社会形成にいくつかの形で影響を及ぼします。
まず、トラウマの継承です。組織的な暴力や差別は、単に当時の人々に傷を残すだけでなく、世代を超えて心理的、社会的な影響を及ぼすことがあります。トラウマは、単なる「記憶」としてよりも、語り得ないもの、表現しきれないものとして共同体の深層に残り、不信感や脆弱性として現代の対人関係や社会参加に影を落とすことがあります。
次に、歴史認識の対立です。過去の出来事に対する解釈や評価の違いは、現代の集団間の分断を引き起こします。特定の出来事を「栄光の歴史」として語る集団と、「抑圧の歴史」として語る集団が存在する場合、両者の間に共通の基盤を見出すことは困難になります。この歴史認識の対立は、現代の政策決定や社会運動、教育といった様々なレベルでD&Iの実践を妨げる要因となります。
さらに、責任と償いの問題です。過去の不正義に対する責任を誰が、どのように負うべきか、そしてどのような形で償いを行うべきかという問いは、現代社会に重くのしかかります。謝罪、記念碑の設置、教育プログラムの改訂、あるいは経済的な補償など、様々なアプローチが議論されますが、これらはすべて、過去の記憶といかに向き合うかという哲学的な問いと深く結びついています。ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、第二次世界大戦後のドイツにおいて、歴史的責任、政治的責任、道徳的責任、そして形而上学的責任という四つの責任概念を提示し、過去の出来事に対する向き合い方を論じました。これは、現代のD&Iにおける過去との対峙を考える上で示唆的です。
記憶、忘却、そして包摂的な未来へ
過去の不正義の記憶に向き合うことは、困難で苦痛を伴う作業です。そのため、「もう過去のことだ」「水に流すべきだ」「忘れて前に進むべきだ」といった「忘却」を求める声も存在します。しかし、哲学者ポール・リクールは、『記憶、歴史、忘却』などの著作で、記憶と忘却の複雑な関係性を論じました。リクールによれば、忘却には病的な忘却(トラウマによる抑圧など)や操作された忘却(意図的な歴史修正など)もあれば、癒やしや和解に繋がる「忘れることによる赦し」のような肯定的な側面もありえます。
しかし、包摂的な社会を目指す上で重要なのは、不正義の記憶を安易に「忘却」することではなく、むしろそれを「想起」し、その意味を問い直し、現在と未来の行動に活かすことです。これは、単に過去の出来事を「知る」こと以上に、過去の出来事が現在の社会構造や人々の感情にいかに影響しているかを「理解する」ことを意味します。
この理解のためには、異なる記憶を持つ人々との間の「対話」が不可欠です。自身の集合的記憶を相対化し、他者の語る記憶に耳を傾けること。これは、他者の経験や感情を「承認」することでもあります。アクセル・ホネットが論じたように、承認は個人の尊厳や自己関係性の確立に不可欠であり、共同体における公正な関係性の基盤となります。過去の不正義によって傷つけられた人々にとって、その経験と記憶が社会的に承認されることは、包摂への重要な一歩となります。
哲学的な記憶論は、私たちが過去の不正義の記憶を、単なる歴史的記録としてではなく、現在の社会を問い直し、未来の包摂を築くための倫理的なリソースとして捉え直すことを可能にします。記憶は、過去の出来事への責任を問い、現在に生きる私たちの関係性を問い直し、そして、異なる記憶を持つ者同士がいかに共存し、共に未来を創造していくのかという根源的な問いを私たちに突きつけます。
結論:記憶と共にあるD&I実践
現代社会の多様性と包摂の課題は、過去の不正義の記憶と切り離して考えることはできません。哲学的な視点から記憶の性質、集合的記憶の働き、そして過去の不正義が現在に及ぼす影響を考察することは、D&I実践の深層にある困難を理解し、乗り越えるための重要な手がかりとなります。
記憶は時に痛みを伴い、分断を生む原因ともなりますが、同時に、他者の苦しみを理解し、過去の過ちから学び、より公正で包摂的な未来を築くための倫理的な羅針盤ともなり得ます。安易な忘却ではなく、批判的な想起と、異なる記憶を持つ人々との間の誠実な対話を通じて、私たちは過去の不正義の記憶と共存しながら、真に多様な人々が共に生きられる社会を目指していく必要があるでしょう。
この過程で、私たちは自らの属する共同体の記憶をどのように捉え、他者の記憶にどのように耳を傾けるのか、そして過去の不正義に対する責任といかに向き合うのかという、哲学的な問いを常に自らに問い続けることが求められます。