哲学で考えるD&I実践

哲学が問う現代社会の規範と多様性:逸脱はいかに生成され、包摂されうるか

Tags: 哲学, 多様性, 包摂, 規範, フーコー, 社会学

はじめに:規範と多様性の間で揺れる現代社会

現代社会は、「多様性」と「包摂」の重要性が広く認識される一方で、依然として多くの人々が「標準」や「普通」といった目に見えない規範から逸脱しているとして、生きづらさや排除を経験しています。職場の慣習、社会的な期待、美の基準、家族の形態など、私たちは日々の生活の中で様々な規範に囲まれて生きています。これらの規範は、多くの場合自明視され、無意識のうちに私たちの行動や思考、さらには他者への眼差しを形作っています。

一体、これらの規範はどのように生まれ、機能しているのでしょうか。そして、なぜ多様なあり方の一部は「逸脱」と見なされてしまうのでしょうか。哲学的な視点からこの問いを掘り下げることは、単に社会の現状を理解するだけでなく、真に多様性を包摂する社会を構想するための重要な手がかりを与えてくれます。本稿では、「規範」と「逸脱」という概念を哲学的に考察し、それが現代の多様性・包摂(D&I)の実践にいかなる示唆をもたらすのかを探求します。

規範の哲学的探求:権力と知の作用

哲学は古来より、人間の行為を律する「規範」について深く考察してきました。道徳法則や社会のルールの根拠を探る倫理学や政治哲学は、規範がなぜ必要なのか、どのような規範が正当であるのかを問うてきました。プラトンのイデア論における普遍的な善、カントの定言命法、ロールズの公正としての正義などがその例です。これらの議論は、理想的な規範のあり方を追求するものでした。

しかし、近代以降、特にニーチェが価値の根源を問い、フーコーが権力と知の結びつきを明らかにして以降、規範は単に理想や理性から導かれるものとしてではなく、特定の歴史的・社会的な文脈の中で構築され、権力によって維持されるものとして捉えられるようになりました。

ミシェル・フーコーの規律権力論は、この点において極めて示唆的です。フーコーによれば、近代社会における権力は、主権者が臣民を抑圧するような露骨な形だけでなく、規律(discipline)という形で社会の隅々に浸透しています。規律は、学校、病院、工場、兵舎といった制度を通じて身体を訓練し、時間を管理し、空間を組織化することで、「正常(normal)」な状態を定義し、そこから外れるものを「逸脱」として排除・矯正します。

フーコーにとって、規範とは単なるルールではなく、特定の「正常」を定義し、それに基づいて個人を分類し、序列化し、管理するための装置です。この規範は、「知」と不可分に結びついています。例えば、医学的規範は「健康」と「病気」を区別し、心理学的規範は「正常な精神」と「異常な精神」を区別します。これらの知は客観的な真理のように見えますが、フーコーはそれが歴史的に構築され、特定の権力関係の中で機能していることを暴き出しました。

このフーコーの視点から見れば、現代社会における多様性の課題は、単に異なる属性を持つ人々がいる、という事実の問題ではありません。むしろ、特定の属性やあり方(例: 異性愛、健常、男性、特定の民族、特定の働き方など)が「正常」という規範として確立され、そこから外れる多様なあり方(例: LGBTQ+、障害を持つ人々、女性、マイノリティ、多様な働き方など)が「逸脱」として周縁化されてしまう構造の問題として捉え直すことができます。

逸脱はいかに生成されるか、そしてその可能性

「逸脱」とは、文字通り規範から「逸れ」「外れる」ことです。しかし、フーコーの議論を踏まえれば、逸脱は単に個人的な失敗や異常ではなく、規範がその境界線を引くことによって初めて「生成」されるものです。規範が「こうあるべきだ」と定めるからこそ、そこから外れる行為や存在が「そうではないもの」として特定されるのです。

エミール・デュルケムは、社会学的な視点から逸脱(犯罪)が社会に存在する普遍的な現象であり、ある程度の逸脱は社会の健全性の指標でありうると論じました。逸脱は、社会規範を再確認させ、集合意識を強化する機能を持つと同時に、新しい規範や社会の変化の可能性を示すシグナルともなりえます。

しかし、フーコーやジュディス・バトラーのような思想家は、逸脱が単に機能的な役割を果たすだけでなく、それが権力によって構築された規範に対する抵抗や、新たなアイデンティティの表明となりうる点に注目します。特にバトラーは、性別の二元性や異性愛を当然とする規範(ヘテロノーマティヴィティ)に対するドラァグやクィアな実践を、規範の反復と同時にそれを撹乱するパフォーマティヴィティとして分析しました。規範からの「逸脱」とされる行為や存在は、既存の規範の不自然さや強制力を露呈させ、別のあり方の可能性を切り開く契機となるのです。

現代D&Iの文脈で見れば、例えば「女性管理職はこうあるべき」「エンジニアはこういうタイプだ」「子育ては母親がするものだ」といった規範に対する「逸脱」は、個人的な問題ではなく、それらの規範が持つ抑圧性や限定性を明らかにする行為として捉えられます。多様な働き方、非伝統的な家族構成、非典型的なコミュニケーションスタイルなどが「逸脱」として困難に直面するのは、それらが既存の規範と衝突するからです。しかし同時に、これらの「逸脱」の試みは、社会全体に「当たり前」を見直し、規範を問い直すことを促します。

包摂における規範の課題:新たな「正常」の再生産を防ぐために

現代D&Iの実践は、「多様性を受け入れよう」「誰も排除しない社会を作ろう」という肯定的なメッセージを掲げます。しかし、哲学的な視点から見ると、ここにも落とし穴がないか問い直す必要があります。

例えば、D&Iの目標として特定の数値を設定したり、「理想的なダイバーシティ人材像」を設定したりすることは、新たな「正常」や「あるべき姿」という規範を作り出してしまう可能性はないでしょうか。また、「多様性」という言葉自体が、実際にはマジョリティから見て「許容できる範囲の差異」を選別し、それ以外のより根深い「逸脱」を再び不可視化したり排除したりするリスクはないでしょうか。

アガンベンが論じた「例外状態」は、規範が停止されたかに見える状況において、実は規範が隠れた形で最も強力に作用していることを示唆します。D&Iの名の下に「多様性」が語られるとき、何が「包摂」の対象となり、何が依然として「例外」として扱われるのか。この境界線は、どのような規範によって引かれているのか。これを問い続けることが重要です。

真の包摂とは、単に多様な人々を既存のシステムや規範の中に「受け入れる」こと以上のものを求めるかもしれません。それは、既存の規範が持つ権力性、構築性、そして排除のメカニズムを深く理解し、多様なあり方がそれぞれに固有の価値を持つものとして、規範そのものを不断に問い直し、変容させていくプロセスなのではないでしょうか。

つまり、哲学的にD&Iを考える際には、「多様ないし逸脱した人々をどう包摂するか」という問いだけでなく、「そもそも何が規範として機能し、いかにして逸脱が生成されるのか」「そして、包摂的な社会とは、どのような規範のあり方を目指すべきなのか」という根源的な問いに立ち返る必要があります。

結論:規範への問いが包摂を深化させる

本稿では、哲学的な視点、特にフーコーの規範論などを参照しながら、現代社会における「規範」と「逸脱」の関係性が、多様性・包摂の課題といかに深く結びついているかを考察しました。規範は単なる社会のルールではなく、権力と知によって構築され、「正常」と「逸脱」を区別し、特定のあり方を周縁化する装置として機能します。そして、逸脱とされる現象は、規範の存在とその強制力を露呈させ、抵抗や変化の可能性を秘めています。

D&Iの実践を進める上では、どのような規範が作用しているのかを常に意識し、それが特定の属性を持つ人々を不利益に陥れていないかを問い続ける必要があります。多様性を包摂するとは、既存の規範の中で多様性を「管理」することではなく、規範そのものを、多様な人々がそれぞれのあり方で肯定されるような形に変容させていく営みであると言えるでしょう。

この哲学的考察は、私たちが自身の置かれた環境(職場、大学、地域社会など)における見えない規範に気づき、それが生み出す「逸脱」に対する自身の無意識的な反応を問い直す契機となるでしょう。そして、真にインクルーシブな社会とは、単に多様な人々が集まる場ではなく、多様な規範が許容され、あるいは規範自体が絶えず問い直される開かれた場であることを示唆しています。哲学は、この規範への問いを通じて、現代社会の多様性・包摂の実践に深い視座を提供してくれるのです。