哲学で考えるD&I実践

哲学が解き明かす現代社会の排除の構造:包摂を考えるための視点

Tags: 哲学, 排除, 包摂, D&I, 社会構造, フーコー, 権力, 規範

はじめに

現代社会において、多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)は重要な課題として認識されています。D&Iの推進は、単に異なる属性を持つ人々を「認める」ことにとどまらず、誰もが社会の一員として尊重され、参加し、貢献できる状態を目指すものです。しかし、現実には様々な形で「排除」の構造が存在し、包摂の実現を阻んでいます。

本稿では、この「排除」という現象に哲学的な視点からアプローチします。排除は単なる個人の悪意や特定のグループの差別意識から生じるだけでなく、社会構造や制度、さらには私たちの思考の枠組みそのものに深く根差している場合があります。哲学は、そうした見えにくい構造や、排除を生み出す根源的なメカニズムを問い直すための強力なツールとなり得ます。ここでは、哲学史における排除・包摂に関する議論を辿りつつ、現代社会における排除の構造を理解し、真に包摂的な社会を構想するための視点を探求します。

哲学史における排除の系譜

哲学は古くから「誰を共同体のメンバーとするか」「何が正常/異常か」といった問いと向き合ってきました。そこには、常に特定の基準に基づいた「線引き」や「排除」の論理が働いてきました。

例えば、プラトンやアリストテレスの古代ギリシャ哲学におけるポリス(都市国家)の構想においても、市民権は特定の属性を持つ者(成人男性、自由民など)に限定され、女性、奴隷、異邦人などは明確に共同体の外に置かれていました。ここでは、共同体の安定や善といった目的のために、特定の集団を排除することが正当化される側面が見られます。

近代哲学においては、理性の力が重視され、理性を持つ人間は普遍的な権利を持つとされる一方で、理性を持たないと見なされた人々や文化が周縁化・排除される傾向も見られました。植民地主義や差別思想の哲学的な根拠付けに利用された事例も少なくありません。

こうした歴史を振り返ると、哲学自体が意図せず排除の論理を内包してきた側面があることを認識する必要があります。しかし同時に、哲学は既存の規範や権力を批判的に問い直し、排除される者の声に耳を傾ける力も持っています。

構造的排除と権力の問題

現代社会における排除は、もはや単に個人の差別意識に還元できる問題ではありません。制度や慣行、社会規範、経済構造など、より広範で複雑な「構造」によって人々が不利な立場に置かれ、社会への参加が阻害される構造的排除という側面が強く現れています。

ミシェル・フーコーは、近代社会における権力のあり方を深く分析しました。彼の議論によれば、権力は抑圧的なものとしてだけでなく、知識や真実を生産し、人々の身体や行動を規律する生権力(biopower)としても機能します。生権力は、人口の生命を管理・最適化しようとする過程で、「正常」と「異常」、「健康」と「病気」といった二項対立を作り出し、特定の属性を持つ人々を管理・排除の対象としました。精神疾患を持つ人々、性的マイノリティ、犯罪者などが、こうした生権力の網の目の中で周縁化され、施設に隔離されるといった歴史は、生権力と排除の構造的な結びつきを示しています。

また、ジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」論は、生権力が支配する現代において、特定の存在が法的な保護を剥奪され、「剥き出しの生(bare life)」として排除されるメカニズムを明らかにしました。難民や無国籍者などが、国家や法の外部に置かれ、権利の主体として扱われない状況は、現代における最も根源的な排除の一形態と言えるでしょう。

これらの哲学者の視点は、現代社会における差別や不平等が、単なる個人の問題ではなく、特定の集団を周縁化・管理しようとする権力の働きや、それを支える構造、知識のあり方と密接に関わっていることを教えてくれます。

排除の構造を解き明かすための哲学的な問い

哲学的な視点から排除の構造に迫るためには、以下のような問いを立てることが有効です。

  1. 規範の起源と機能: どのような規範が「正常」や「望ましい状態」を作り出し、それに合致しない人々を「異常」として排除するのか? その規範は誰によって、どのように作られたのか?
  2. カテゴリーの構築: 人々を特定のカテゴリー(性別、人種、障害、性的指向など)に分類すること自体が、どのように差異を固定し、排除を生み出すのか? カテゴリーは「自然」なものか、それとも社会的に構築されたものか?(ジュディス・バトラーのジェンダーに関する議論などが参考になります)
  3. 見えない暴力: 物理的な暴力だけでなく、制度や言葉遣い、日常的な慣行に潜む「見えない暴力」(構造的暴力、象徴的暴力、マイクロアグレッションなど)は、いかにして特定の集団から尊厳や自己肯定感を奪い、社会からの距離を生み出すのか?
  4. 「普遍性」の落とし穴: 誰もに当てはまるはずの「普遍的なルール」や「人権」が、特定の属性を持つ人々の経験やニーズを無視し、結果として排除を生み出すことはないか? 誰にとっての「普遍」なのか?
  5. 沈黙させられる声: 排除の構造の中で、特定の集団の声や経験はどのようにして聞こえなくされ、社会的な議論から排除されるのか? 語られない物語にどう耳を傾けるか?

これらの問いは、私たちが当然だと思っている社会の仕組みや知識、言葉遣いの中に潜む排除のメカニズムに気づき、それを批判的に分析するための道筋を示します。

包摂への哲学的な視点:排除を超えるために

排除の構造を哲学的に理解することは、単に問題を分析するだけでなく、真に包摂的な社会を構想するための重要な出発点となります。包摂は単に「みんな一緒」にすることではなく、それぞれの差異が尊重され、それぞれのあり方で社会に参加できる状態です。

包摂を考える上で、哲学は以下のような視点を提供します。

まとめ

現代社会における多様性と包摂の問題は、単なる表面的な対応や一時的な施策で解決できるものではありません。その根底には、権力、規範、知識、カテゴリー化といった哲学的なテーマと深く関わる「排除の構造」が存在します。

哲学的な視点から排除の構造を問い直すことは、私たちが無意識のうちに依拠している思考の枠組みや、社会に埋め込まれた不平等のメカニズムに気づくための重要な一歩です。そして、この理解こそが、単なる多様性の承認にとどまらない、真に包摂的な社会、すなわち誰もが自分らしく生き、社会に積極的に関わることができるような共同体をいかに構想し、実現していくかを考える上での不可欠な視座を提供してくれます。

本稿が、皆様が現代社会のD&I問題をより深く、構造的に理解し、ご自身の思考を深めるための一助となれば幸いです。哲学は、時に困難な問いを投げかけますが、その問いを通して、私たちはより公正で開かれた社会の可能性を探求することができるのです。