現代D&Iにおける「承認」の課題:哲学史に見るその起源と展開(ヘーゲル、ホネットを中心に)
はじめに:現代社会と「承認」の問い
現代社会は、多様性の受容と包摂(Diversity & Inclusion, D&I)が重要な課題として認識される一方で、アイデンティティを巡る対立や、特定の人々が排除される構造が依然として存在します。このような状況において、私たちは「自分とは何か」「他者といかに共存するか」といった根源的な問いに直面しています。
これらの問いを深く理解し、現代のD&I問題を本質的に捉えるためには、「承認(Recognition)」という概念が極めて有効な視座を提供します。単に他者の存在を許容するだけでなく、その価値や固有性を積極的に認めること。この「承認」を巡る哲学的な考察は、社会における多様なアイデンティティがどのように形成され、いかに互いを尊重し合える関係性を築くべきかを示唆してくれます。
本稿では、この「承認」という概念が哲学史においてどのように捉えられてきたのか、特にその源流とも言えるヘーゲルの思想と、現代社会学・哲学に応用したアクセル・ホネットの議論に焦点を当てます。彼らの承認論を通して、現代のD&I実践における「承認」の課題と、哲学的な視座がもたらす示唆について考察を進めます。
承認の哲学の源流:ヘーゲルの「承認を求める闘争」
承認の哲学を語る上で避けて通れないのが、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルです。彼の主著『精神現象学』における有名な「主人と奴隷(支配と服従)」の関係性の議論は、自己意識が孤立したものではなく、他者との関係性、特に他者からの承認を通じて初めて自己として確立されることを示しました。
ヘーゲルによれば、自己意識は自らを「自己」であると認識するために他者を必要とします。しかし、他者もまた同様に自己承認を求めており、ここに両者間の「承認を求める闘争」が生じます。この闘争は、一方を支配する主人、他方を服従する奴隷という非対称な関係を生み出します。一見、主人は奴隷から承認を得て自己を確立したかに見えますが、実際には、奴隷は労働を通じて自然を加工し、自己の否定を通して自らを形成するため、真に独立した自己意識を獲得するのは奴隷の方である、とヘーゲルは論じました。
ヘーゲルのこの議論が示唆するのは、真の自己意識や自由は、他者を否定したり一方的に支配したりすることによっては得られず、むしろ相互的な承認の関係においてのみ可能であるということです。私たちは他者を単なる「モノ」として扱うのではなく、私たちと同様に自己意識を持つ存在として承認することで、初めて私たち自身の自己意識も確固たるものとなるのです。
この相互承認の思想は、現代のD&Iにおける多様なアイデンティティの尊重と深く結びつきます。異なる文化的背景、性的指向、価値観などを持つ人々が、単に「許容される」のではなく、相互に主体として承認し合い、その固有性が社会的に位置づけられることの重要性を、ヘーゲルの承認論は哲学的に基礎づけていると言えるでしょう。
現代社会における承認の課題:アクセル・ホネットの承認論
ヘーゲルの承認論は、20世紀後半から21世紀にかけて、フランクフルト学派の社会哲学者アクセル・ホネットによって現代社会の批判理論として展開されました。ホネットは、現代社会における様々な社会葛藤や不正義を、ヘーゲル的な意味での「承認の剥奪(Misrecognition)」として捉え直しました。
ホネットは、社会的に健全な自己関係を築くためには、三つの異なる領域における承認が必要であると論じました。
- 愛(Liebe): 近しい関係(家族、友人、パートナーなど)における感情的な承認。これにより、自己への基本的な信頼(Basisvertrauen)が育まれます。剥奪は、ネグレクトや虐待といった形で現れ、身体的な尊厳の喪失につながります。
- 法(Recht): 法的・道徳的な承認。全ての個人が等しい権利と義務を持つ法的主体として認められることです。これにより、自己への敬意(Selbstachtung)が生まれます。剥奪は、差別的な法制度や権利の侵害として現れ、社会的な排除につながります。
- 連帯/社会的評価(Solidarische Wertschätzung / Soziale Wertschätzung): 社会全体における個人の能力や生き方への評価。特定のスキル、職業、ライフスタイル、あるいは文化的背景などが、社会的に価値あるものとして認められることです。これにより、自己への評価(Selbstschätzung)が可能となります。剥奪は、特定の集団に対する軽蔑、非難、あるいは単なる無視として現れ、社会的な自己価値の低下や疎外感につながります。
ホネットの承認論は、特に第三の領域である「社会的評価」が、現代D&Iの議論といかに密接に関わるかを示しています。多様なアイデンティティを持つ人々が直面する困難は、単に法的な権利が保障されていないだけでなく、あるいは個人的な関係性の中で傷ついているだけでなく、社会全体の規範や価値観の中で、自分たちの存在様式が「価値あるもの」として認められない、あるいは積極的に貶められることに起因する場合が多いのです。
例えば、特定の文化的背景を持つ人々の慣習が社会的に理解されず、偏見の対象となること、あるいは性自認や性的指向が「普通ではない」と見なされ、軽蔑されることなどは、「社会的評価」における承認の剥奪に当たります。D&Iの推進は、単に法的な平等を保障したり、ハラスメントを防いだりするだけでなく、多様な生き方や価値観が社会全体の財産として肯定的に評価されるような、文化的・規範的な変革を目指す必要があることを、ホネットの承認論は示唆しています。
承認論から見る現代D&I実践への示唆
ヘーゲルとホネットの承認論を現代D&Iの文脈で考えるとき、いくつかの重要な示唆が得られます。
第一に、D&Iは単なる「違いの受容」に留まらず、「価値あるものとしての承認」を目指すべきであるということです。多様な属性を持つ人々が、その属性ゆえに排除されるのではなく、その差異が社会的な創造性や豊かさの源泉として肯定的に評価されるような社会をどう築くか。この問いに対し、承認の哲学は明確な方向性を示します。
第二に、構造的な不平等や差別は、単なる経済的格差や政治的権力の差だけでなく、「承認の剥奪」という次元からも理解される必要があるということです。特定の集団が歴史的に、あるいは継続的に、社会的な評価や敬意を剥奪されてきた事実を認識し、それを是正するための取り組みは、D&I実践の重要な柱となります。アファーマティブ・アクションのような施策も、過去の承認の剥奪によって生じた不平等を是正し、特定の集団の社会的評価を高めるための一つの試みとして位置づけることができるかもしれません。
第三に、承認は相互的なプロセスであるという点です。D&Iを推進するためには、マジョリティ側がマイノリティを一方的に「承認してあげる」という構図ではなく、多様な主体が互いの価値を認め合い、相互に影響を与え合う関係性を構築することが不可欠です。企業や組織におけるD&I戦略においても、制度変更だけでなく、従業員一人ひとりが互いの違いを理解し、尊重し合うための対話や学びの機会を設けることが重要になります。
結論:哲学で深めるD&Iへの理解
ヘーゲルに始まり、ホネットによって現代的に展開された承認の哲学は、現代社会における多様性、アイデンティティ、そして包摂の課題を考察するための強力なツールとなります。それは、社会における不平等や排除が、単なる資源の不均衡だけでなく、他者からの承認、あるいはその剥奪と密接に関わっていることを明らかにします。
多様な人々が共に生きる社会を目指すとき、私たちは表面的な理解や対症療法に留まらず、一人ひとりが自己の価値を他者や社会から承認され、自己肯定感を持ちながら生きていけるような深いレベルでの関係性や構造を追求する必要があります。承認の哲学は、このような社会を構想し、実現するための哲学的な基盤を提供してくれるでしょう。
私たちの社会は、今、多様なアイデンティティを持つ人々をどのように「承認」しているでしょうか。承認の剥奪は、私たちの身の回りのどこで、どのように起きているでしょうか。そして、相互承認に基づく真の包摂社会を築くためには、私たち一人ひとりが、そして社会全体が、何を変えていく必要があるでしょうか。承認の哲学は、これらの問いを私たちに投げかけ、D&Iへの理解と実践をより深遠なものへと導いてくれるはずです。