脆弱性と依存の哲学から考える包摂:現代社会のD&I課題へのアプローチ
はじめに:見過ごされがちな人間存在の側面
現代社会における多様性(Diversity)と包摂(Inclusion)、すなわちD&Iは、喫緊の課題として広く認識されるようになりました。様々なバックグラウンドを持つ人々が共に尊重され、参加できる社会の実現を目指す取り組みは、多くの分野で進められています。しかし、この議論の中で、人間存在の根源的な側面である「脆弱性」と「依存」という概念は、時に十分に深掘りされることなく扱われているのではないでしょうか。
私たちは皆、生まれながらにして、また生きていく過程で、様々な種類の脆弱性を抱え、他者や環境、社会システムに依存しながら生きています。病、老い、障害、精神的な困難、幼少期、あるいは単に予期せぬ出来事への曝露など、脆弱性は特定の誰かだけでなく、普遍的な人間の条件です。また、家族、友人、コミュニティ、そして社会基盤への依存も、私たちの生を成り立たせる基盤です。
本稿では、この「脆弱性」と「依存」という二つの概念に哲学的な光を当て、それが現代のD&I課題をどのように理解し、乗り越えるための新たな視点をもたらすのかを考察します。単に弱さを克服すべきものと捉えるのではなく、人間存在のあり方として哲学的に問い直すことから、より根源的な包摂の可能性を探ります。
脆弱性の哲学:普遍的な条件としての「弱さ」
哲学史において、人間の脆弱性はその都度異なる文脈で論じられてきました。例えば、実存主義は人間の偶発性や自由ゆえの不安、つまり存在の不安定さを問い、プラグマティズムやケアの倫理は、環境や他者との相互作用の中で傷つき、影響を受けやすい存在としての人間を描写します。
特に現代において、身体や生そのものの脆弱性は、社会的な規範や構造によって特定の集団に結びつけられ、「障害」「病気」「老い」といったカテゴリーに分類されることが多くあります。これらのカテゴリーは、しばしば社会的な排除やスティグマ(負の烙印)を生み出す原因となります。しかし、ジュディス・バトラーのような思想家は、身体の脆弱性が他者との関係性において成立する側面を強調し、この普遍的な脆弱性こそが連帯や倫理の基盤となりうると論じます。私たちの身体は常に外部に曝露されており、傷つきやすく、予測不能な事態に直面する可能性を孕んでいます。この曝露性こそが、他者との相互作用や、他者からのケアを必要とする根拠となり、同時に他者に対して責任を持つことの基盤ともなり得るのです。
脆弱性を単に「機能不全」や「標準からの逸脱」と捉えるのではなく、「生そのものの条件」として受け入れる視点は、D&Iにおいて極めて重要です。これにより、特定の属性を持つ人々を「ケアの対象」や「助けられるべき存在」として一方的に位置づけるのではなく、全ての人が潜在的に、あるいは顕在的に抱える普遍的な状態として脆弱性を認識し、それを踏まえた上で社会や関係性を設計するという発想が可能になります。
依存の哲学:自立神話を超えて
近代哲学においては、理性的で自律的な主体像が重視される傾向がありました。カント的な倫理学における自律性はその典型であり、自身の理性に従って行為する能力が人間の尊厳の源泉と考えられました。このような主体観は、個人の権利や自由を保障する上で重要な役割を果たしましたが、同時に人間が常に他者に依存しているという現実を見えにくくする側面もありました。
しかし、人間は生まれた時から他者(親や養育者)に全面的に依存し、成長しても社会的な分業、経済システム、公共サービスなど、様々な形で他者や社会システムに依存して生きています。アクセル・ホネットの承認論が示すように、自己意識や自己肯定感は、他者からの承認という関係性の中で形成されます。私たちは決して孤立した自律的な原子ではなく、複雑な依存関係のネットワークの中に位置づけられています。
ケアの倫理は、このような相互依存的な人間関係に光を当てます。ギリアン・スコット=マクリーンやキャロル・ギリガンなどの論者は、自律性や正義といった抽象的な原理だけでなく、具体的な他者との関係性における応答性や責任、つまり「ケア」の重要性を強調しました。ケアは一方的に与えられるものではなく、ケアする側とされる側が相互に関わり合うダイナミックなプロセスです。
現代のD&I議論は、ともすれば個々人の「能力向上」や「自立促進」に焦点を当てがちです。もちろんこれらも重要ですが、哲学的な依存の考察は、全ての人が持つ依存の側面を肯定的に捉え、それを支え合う社会のあり方を問うことを促します。完全な自立は幻想であり、私たちは皆、互いに支え、支えられながら生きています。包摂とは、この相互依存性を認め、誰もが安心して他者に依存できる関係性やシステムを構築することでもあるのです。
脆弱性と依存から考えるD&I実践
脆弱性と依存を人間存在の根源的な条件として哲学的に理解することは、現代のD&I実践にいくつかの重要な示唆を与えます。
第一に、規範の見直しです。「自立していること」「健常であること」「生産的であること」といった社会的な規範は、普遍的な脆弱性や依存を考慮していません。これらの規範から逸脱する人々を「包摂すべき例外」として扱うのではなく、全ての人が規範から逸脱しうる潜在性を持ち、また依存関係にあることを前提とした社会設計が必要です。これは、物理的なバリアフリーだけでなく、情報へのアクセス、コミュニケーションの方法、働き方、教育システムなど、あらゆる側面に及びます。
第二に、関係性の重視です。D&Iは、個々の属性の多様性だけでなく、異なる背景を持つ人々がいかに互いに関わり、支え合うかという関係性の問題です。脆弱性や依存の哲学は、人間関係の基盤が相互の応答性やケアにあることを示唆します。排除とは、この相互依存的な関係性から切り離されることであり、包摂とは、安心して繋がり、必要であれば他者に頼ることができる関係性のネットワークの中に位置づけられることです。
第三に、倫理的な責任の再考です。レヴィナスは、他者の顔に対する応答として根源的な責任が生じると論じました。脆弱な他者の存在は、私たちに一方的な責任を問いかけます。D&Iの文脈では、これは単なる「権利の保障」を超えて、脆弱性を抱える他者への深い配慮や応答性が求められることを意味します。構造的な不正義によって生み出される脆弱性に対して、個人のみならず社会全体の責任を問い直す必要があります。
結論:包摂への新たな地平
脆弱性と依存という哲学的な問いは、現代のD&I課題に対して、単なる属性の多様性や権利の平等といった側面を超えた、より深く根源的な視点をもたらします。人間存在の普遍的な脆弱性と相互依存性を認め、それを社会設計や人間関係の基盤に据えること。これは、強さや自立を偏重する規範を問い直し、互いに支え合う関係性の中に真の包摂を見出す試みです。
哲学的な考察を通じて、私たちは自分自身の脆弱性や依存にも気づき、それを否定するのではなく受容することの重要性を学びます。そして、その受容こそが、他者の脆弱性や依存に対する共感的な理解へと繋がり、分断されがちな現代社会において、共に生きるための新たな連帯の形を模索する出発点となるのではないでしょうか。脆弱性と依存を深く問い直すことは、包摂への新たな地平を切り拓く鍵となるでしょう。